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第7話

颯太は桜のICUでの状態を確認した後、疲労感を感じながら医局に戻った。扉を開けると、木村先生がデスクで書類を整理しているのが見えた。木村先生は書類に集中しているようだったが、颯太が入ってくるのを察知するやいなや、立ち上がって駆け寄ってきた。


「神崎先生…!」


木村先生の声には、いつもの調子とは違った感情がにじみ出ていた。近づいてきた木村先生の目はうっすらと涙ぐんでおり、手を颯太の肩にそっと置いた。


「本当にありがとう…手術の記録映像見たよ。素晴らしかった。君がいなかったら、桜ちゃんの手術が無事に終わっていなかったかもしれない…」


木村先生は感極まった様子で、感謝の言葉をかけながらも、どこか苦しげな表情を浮かべていた。途中で抜けたことをかなり気にしているのかもしれない。


「木村先生…そんな、先生が謝る必要なんてありません。緊急事態でしたから」


颯太は恐縮しながらも、木村先生をフォローしようと努めた。しかし、木村先生は一瞬うなずいたものの、目を伏せて深くため息をついた。その表情には、心の中で何かが引っかかっているような陰が見えた。


「いや…あの時、私は残るべきだったんだ。本当に申し訳ない…」


木村先生の声は弱々しく、普段の自信に満ちた彼とはまったく違っていた。颯太は、木村先生の背負っている重圧を感じながら、何とかその気持ちを軽くしてあげたいと思った。


「先生、責任を感じすぎないでください。僕があの場で対応できたのは、木村先生の指導のおかげですし、何かあったらすぐに連絡できる状況でした。ですから…」


木村先生はその言葉に耳を傾けながらも、落ち込んでいる様子を隠せなかった。しばらくして、彼は俯いたまま小さな声で言った。


「申し訳ない…本当に、申し訳ない」


颯太はもう何も言えず、その場に立ち尽くしていた。


「むこうで手術の話を聞いてもいいかな?」


木村先生が提案し、二人は医局横のミーティング室へ移動した。ミーティング室に入ると、木村先生は椅子に深く腰を下ろし、再び頭を垂れた。颯太も向かいの椅子に座り、少し緊張しながら木村先生の顔を見つめた。


「神崎先生、君にこれを言うのは辛いが…今日は、君がすべてを背負わせてしまった形になってしまった。あの場を任せて、正直不安だったが…本当に見事にやり遂げてくれた。ありがとう」


「いや…そんな…」


颯太はあくまで木村先生をフォローしようとしたが、木村先生は微笑むことなく、そのまま黙り込んでしまった。


しばらくの沈黙の後、颯太は、木村先生が退室した後の手術経過について話し始めた。桜の手術が順調に進んだこと、血流や出血の確認が問題なくできたこと、そして彼女の状態が安定していることを報告した。

木村先生はその説明を黙って聞いていたが、どこか申し訳なさそうに頷きながら、颯太の言葉を受け止めていた。


木村先生はじっと颯太の話を聞いていた。手術の経過報告を説明する颯太の姿は、かつての彼の印象とはまるで違って見えた。木村先生はしばらく黙ったまま思案していたが、やがて意を決したように口を開いた。


「神崎先生…」


颯太は話を止め、木村先生の言葉を待った。


「これを機に、桜ちゃんの主治医になってくれませんか?」


その言葉を聞き、颯太の胸の中に驚きと少しの戸惑いが広がった。自分が鈴木桜の主治医として責任を負うことになる。それは大きな転機を意味していた。


「僕が…桜ちゃんの主治医に…ですか?」


「そうだ。君は今日の手術を無事に成功させた。手術準備も完璧だったし、彼女の心身の状態、家族の状況、生活状況を一番理解しているのは君だし、これからの経過を見守るのにも、君が最適だと思う。いや、君しかいないと思うんだ」


颯太はすぐに返事をすることができなかった。これまで、自分は責任の重い役割から逃げてきた。病院に来たばかりの頃、颯太は「無難な仕事をしたい」と思っていたし、何か問題があったときに責任を持つのが怖かった。だが、今はその影を振り払うように、少しずつ前に進もうとしている自分がいた。

しばらくの沈黙の後、颯太は深く息を吸い込んでから、静かに答えた。


「わかりました。桜ちゃんの主治医、しっかりと務めさせていただきたいと思います」


「ありがとう。ただ、一人で抱えないでほしい。桜ちゃんのためにできることがあれば、相談してね」


その言葉に、颯太は深く頷いた。木村先生は、その姿を見て、颯太が成長したことを強く感じた。前に進もうとしている。見違える姿だ。

木村先生は、感動を覚えながら静かに微笑んだ。


「ありがとう、神崎先生。本当に感謝している。桜ちゃんを君に託せて、本当に良かった…」


木村先生の言葉には、深い感謝と安心が込められていた。颯太はその言葉に応えようと、小さく微笑み返しながら、これからの責任と覚悟を胸に刻んだ。


「はい。頑張ります」


木村先生との話が一段落した頃、颯太はふと思い出して尋ねた。


「そういえば、木村先生、呼び出された緊急の手術はどうでしたか?相当むずかしい症例だったんじゃないですか…?」


木村先生は一瞬、言葉に詰まったように視線を泳がせた。いつもの穏やかな表情とは違い、気まずいような苛立つような複雑な表情だ。


「うん。まぁ…無事に終わったよ」


そう答えた木村先生の声はどこか曖昧で、疲労感が色濃くにじんでいた。その表情を見た颯太は、何か聞いてはいけないことに触れたのではないかと感じたが、それ以上追及することはできなかった。


がちゃっ


そのとき、ミーティング室のドアが開き、鷹野先生と藤井先生が入ってきた。鷹野先生の鋭い目が颯太に向けられた。彼は無言でしばらく颯太を見つめ、その眼差しには明らかな敵意がこもっている。


「…終わったのなら、そろそろ交代してくれないか?」


鷹野先生は冷たく言い放つと、颯太を避けるようにしてミーティング室の奥へ向かった。藤井先生もちらりと颯太に目をやったが、すぐに視線を逸らした。二人の様子に、何か不穏な空気が漂っていることを感じ取った颯太は、戸惑いを隠せなかった。


木村先生もその場にいる空気を感じ取ったのか、短く「行こうか」とだけ言い、立ち上がった。颯太も黙ってそれに従い、ミーティング室をあとにする。

廊下に出ると、木村先生は深いため息をついた。疲れが一気に押し寄せてきたのだろうか、彼の顔はさらに重くなっているように見えた。

颯太は鷹野先生の態度に何か違和感を感じながらも、今は木村先生をそっとしておこうと、黙って歩き続けた。


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