颯太とともに鈴木桜の手術を終えた藤井正樹は、手洗い場で神崎颯太と話したあと、長い廊下を歩きながらふと思い返していた。手術途中で木村先生が抜けた緊急事態だったが、颯太が落ち着いて手術を進め、見事に桜の手術を成功させた。
藤井正樹は感情を表に出さない性格だったが、今日の手術での颯太の腕前は認めざるを得ない。彼の成長は予想以上に早い。
「…やるじゃないか」
心の中で呟きながらも、認めることが悔しいという感情がわずかに心の中をかすめた。彼は研修医を終えてしばらく臨床を離れていたと聞いた。一方で、ただひたすら心臓手術に向き合い、これまでので数々の難手術をこなしてきた自分と無意識に比べてしまう。これまでは正直、少しバカにしていた面もある。見下していたというべきか。
しかし、今日の手術での颯太の手さばきは見事で、特に木村先生が抜けた後の緊張感の中で、冷静に状況を判断し続けたことには感心した。
医局のドアを開け、無言でデスクに向かうと、藤井先生は椅子に座り、静かにため息をついた。
「…認めたくはないが、あいつの腕は確かだな」
椅子に深く腰掛け、今日の手術の一部始終が脳裏をよぎる。肺動脈の肥厚した弁を颯太がスムーズに切除し、さらにパッチを正確に縫合した一連の動きが頭に残っていた。事前に準備していたとはいえ、あそこまで素早くできるのか…
日々の業務に追われ、最近の自分は技術や知識の向上を怠っていたかもしれない。
自分の心の中に悔しさが湧き上がってくるのを感じた。彼は医局のデスクから心臓外科の分厚い本を取り出し、静かに勉強を始めた。
(自分も負けてはいられない)
その気持ちが自然と体を動かしていた。
ページをめくりながら、心臓手術の細かい技術や理論を再確認する。知識だけじゃない。技術も…。
「やっぱり、技術の進歩に追いつかないと…」
そんな思いで集中していると、突然廊下から怒鳴り声が聞こえてきた。驚いた藤井はすぐに本を閉じ、デスクから立ち上がった。廊下に出てみると、木村先生と鷹野先生が向かい合って大声で言い合っているのが目に飛び込んできた。
周囲には遠巻きに他の科の医者たちがそれを見ている。
「緊急ではなかったのに、なぜわざわざ私を呼び出したんだ?」
木村先生が声を荒げ、厳しい表情で鷹野先生を睨んでいる。普段温厚で冷静な木村先生がこんなに激しく怒っているのを見るのは、藤井にとって初めてのことだった。
鷹野先生も負けずに言い返す。
「いいや、あれは木村が来なければ助からなかった。お前にしかできない手術だったんだよ!」
鷹野先生の言葉には確信があるように見えたが、木村先生は納得していないようだった。藤井は驚きながらも、二人の言い争いに耳を傾けた。
(なぜこんな状況に…?)
ー数時間前
藤井は鷹野先生とともに、医局で鈴木桜の手術映像を見ていた。画面には颯太が手術を進めている様子が映し出されており、藤井はその技術と冷静さに1人、心のなかで感心していた。しかし、鷹野先生は画面にじっと目を向けながらも、どこか落ち着かない様子で、腕を組んでいた。
「神崎の腕、思ったよりも悪くないですね」
一緒に見ていた他の医者が呟いたが、鷹野先生は反応しなかった。
そのとき、突然、医局の電話が鳴り響いた。鷹野先生が苛立った様子で電話を取り上げた。
「もしもし…はい。…ええ…そうですか…すぐに対応します」
鷹野先生の顔が徐々に険しくなり、電話を切ると藤井のほうを振り返った。普段は冷静沈着な彼が、どこか焦りを見せている。
「どうしましたか?」
藤井が訊ねると、鷹野先生は眉間に皺を寄せ、不安そうに口を開いた。
「緊急事態だ…とても私だけでは背負いきれない…」
その言葉を聞いて、藤井は驚いた。鷹野先生がここまで弱音を吐くことはめったにない。彼はいつも自信に満ちた態度で、どんな手術でも淡々とこなしてきたはずだ。少なくとも、藤井が入職してからはそうだった。
「患者の状態がそれほど危険なのですか?」
鷹野先生は頷きながら答えた。
「非常に複雑な心臓手術が必要だ。これは私一人ではどうにもならない…木村先生を呼ばないと、患者は助からないかもしれない」
その言葉を聞いた藤井は緊張感を覚えた。鷹野先生がここまで言うということは、事態が尋常ではないことを示している。しかし、藤井は同時に疑念も抱いた。鷹野先生はなぜ自分一人で対応できないと感じたのか。木村先生に頼ることで、何か他の目的があるのではないかと、直感的に感じたのだ。しかし、まずは目の前の患者だ。
「すぐに手術着に着替えて、木村と交代してきてくれ。私は先に行って処置を始める」
鷹野先生は淡々と言うと、医局を出て行ったのだった。
藤井は医局での一件を思い返しながら、木村先生と鷹野先生の言い争いを無言で見つめていた。廊下に響く激しい口論に、周囲のスタッフも遠巻きに見守っていたが、誰も介入できないでいる。
「俺じゃなくても対処できただろう?俺は手術中だったんだぞ?」
木村先生が再び声を荒げた。木村先生が自分のことを俺とよぶのも珍しい。それほどまでに激昂しているということだ。
「いや、ちょうど誰もいなかったんだ」
鷹野先生も負けずに返すが、木村先生の表情は納得していない。
藤井の頭には、いくつもの疑念が浮かんできた。鷹野先生が受けた電話は本当に緊急だったのか?確かに、緊急事態という報告だったが、果たしてそれは桜の手術を中断させてまで木村先生を呼び出すほどの事態だったのか?他に医者はいなかったのか…?
…俺じゃだめだったのか…?
(…緊急ではあったが、本当に木村先生を呼ばなければならなかったのだろうか)
藤井は心の中でその問いが繰り返され、どこか引っかかっている。それに、医局で手術映像を見ていたときの鷹野先生の態度。落ち着かず苛立っている様子は、何かを企んでいるようにも見えた。鷹野先生の口から出た「神崎颯太を追い出す」という言葉がこだまして、どうしても頭から離れない。
(まさか、これを利用して…?)
藤井の中で疑念が膨らんでいく。鷹野先生は、颯太を追い出すために、この事態を利用しようとしたのではないか。もしそうなら、今日の騒動はすべて計画の一部だったのかもしれない。
藤井は、自分が信じてきた鷹野先生に対して、不信感が湧き上がってくるのを感じていた。だが、鷹野先生がそんな卑劣な手段を使うとは、どうしても信じたくない気持ちもある。
(…何が真実なんだ…?)
藤井は、目の前で続く言い争いを見つめながら、心の中で葛藤していた。果たして鷹野先生の行動は正しかったのか、神崎颯太は鷹野先生が言うようなやつなのか。そして木村先生が怒っているのは正しいのか。自分が何も知らされていなかったことに対しても、藤井は次第に疑念と戸惑いが募っていった。