手術を無事に終えた後、颯太は手洗い場で一息ついていた。
木村先生が急遽不在という緊急事態だった。長い緊張の連続を乗り越え、なんとか桜の手術を成功させることができたという達成感が胸に広がっていた。手術中は感じなかったが、ずんと全身に重みを感じる。
水が手に触れるたびに、その冷たさが頭をすっきりとさせていく。手術の緊張が和らぐ瞬間はいつもこのときだ。颯太は深呼吸をし、静かに手を洗い続けた。
その時、隣に誰かが立つ気配を感じた。ちらりと横を見ると、藤井先生が黙って自分の手を洗っていた。颯太は少し驚きながらも、特に声をかけることもできず、そのまま手洗いを続けた。
二人の間に気まずい沈黙が流れる。颯太は藤井先生とほとんど話したことがなく、どう話しかけていいのかもわからなかった。颯太も口下手で、実はまったく社交的ではないのだ。藤井先生も寡黙な性格で、何を考えているのか表情から読み取ることができない。
しばらくして、藤井先生がぽつりと呟いた。
「…いい手術だった」
その一言に、颯太は少し驚き、思わず手を止めて、藤井先生の横顔を見つめた。藤井先生から初めてほめられ、颯太は少し戸惑いながらも、洗う手をとめ、頭を下げた。
「ありがとうございます…」
ぎくしゃくした雰囲気の中での短いやり取りだったが、颯太にとっては大きな意味があった。自分がやった手術に対して、経験豊富な藤井先生から「いい手術」と評価されたことが、心から嬉しかった。
藤井先生は手を洗い終え、少し間を置いてから続けた。
「…神崎先生、終始落ち着いていたな。緊急事態でも、スムーズに木村先生の続きをやれていた。途中で根をあげることなく、しっかりやり遂げた」
その言葉を聞いた颯太は、少し緊張しながらも、真面目な表情で答えた。
「木村先生や藤井先生のおかげです。自分ひとりでは、とても…」
(真田先生も…)
颯太は今はどこかに飛んで行っていない真田先生を思い浮かべる。
藤井先生は軽く頷き、何も言わずにタオルで手を拭いていた。その沈黙の中、颯太は少しだけ会話を続けようと、勇気を出して言葉をつないだ。
「藤井先生も、手術中ずっと見守ってくださって…本当にありがとうございます」
藤井先生はそれを聞いて、微かに微笑んだようにも見えたが、すぐにその表情は消えた。先程の笑顔が幻であったかのように微塵もその雰囲気は残っていない。
「…いや…」
二人はそれぞれ手を拭き終え、短い沈黙が再び訪れた。しかし、先ほどとは違って少し打ち解けたような感覚があった。
藤井先生は最後に軽く手を振り、無言で手術室を後にした。颯太はその背中を見送りながら、また一つ成長した実感を噛み締めていた。
颯太は手洗い場を出ると、深く息を吸い込み、家族待合室へと足を向けた。桜の手術が無事に終わり、次は彼女の父親である秀臣にその報告をしなければならない。手術は成功したものの、秀臣がどれほどの不安を抱えて待っているかを考えると、颯太も自然と歩みが早くなった。
家族待合室の扉を開けると、秀臣は椅子に座り、静かに頭を垂れていた。緊張した様子で、じっと床を見つめている。その姿からは、長時間の手術の間、彼がどれほど心配していたのかが伝わってきた。颯太は静かに近づき、秀臣に声をかけた。
「鈴木さん、お待たせしました」
秀臣ははっと顔を上げ、颯太に視線を向けた。疲れた様子の彼の目には、不安と期待が混じっている。
「桜は…無事なんでしょうか…?」
颯太は微笑みを浮かべ、安心させるように優しく頷いた。
「手術は無事に成功しました。桜さんの肺動脈の狭窄は事前検査通りでした。今は心臓も安定しています。右室の肥大の経過は今後もみなければいけませんが、肺動脈のほうの手術は予定通り、順調に行われました」
秀臣はその言葉に少し安心したようで、肩の力が抜けたのが見て取れた。
「本当ですか…よかった…本当に、よかった…」
秀臣の目には、安堵からか涙が浮かんでいた。彼は手で顔を覆い、しばらく沈黙したまま感情を抑えていた。
颯太は落ち着いた声で、さらに心臓のイラストを見せながら、具体的に説明を続けた。
「桜さんの手術は、まず肥厚した肺動脈弁の一部を切除し、血流を改善しました。次に、右室流出路の狭窄部分にパッチを当てて広げることで、血液が心臓から肺に十分に流れるようにしました。これにより、今後、心臓への負担が軽減されます」
秀臣は真剣な表情で頷きながら、颯太の言葉を聞いていた。医療に詳しくない彼にも、颯太の丁寧な説明がしっかりと伝わっているようだった。
「手術中も、特に問題はありませんでした。心臓の再起動もスムーズに行きましたし、出血もほとんどなく、経過は非常に良好です。今は酸素マスクを使っていますが、しばらく様子を見ながら、桜さん自身の呼吸で回復していけるように調整します」
秀臣は感謝の気持ちで胸がいっぱいになったのか、何度も小さく頷いていた。
「ありがとうございます、本当に…桜を助けてくれて…」
颯太はその言葉に微笑みながら、軽く頭を下げた。
「今後の経過も引き続き見守りますが、回復には少し時間がかかるかもしれません。リハビリをしながら、徐々に元の生活に戻れるようみんなでサポートしていきます」
「本当に、ありがとうございました」
颯太はその言葉に笑顔で頷き、再び深く頭を下げた。彼もまた、桜の手術が成功したことに心から安堵し、改めて、責任を果たせたという達成感を感じていた。
颯太は秀臣との会話を終えると、次は桜のいるICUに向かうため、家族控室を出た。秀臣に無事を報告できた安心感からか、肩の力が少し抜けたが、これからまだ回復の見守りが続く。手術は治療の一環に過ぎないのだから。
歩きながら、桜の顔を思い浮かべ、今後の治療方針を考えていた。
廊下を進む途中、ふと足が止まった。彼が顔を上げると、目の前には幽霊の真田先生が立っていた。相変わらずの軽い笑みを浮かべているが、颯太にとってその存在はもう慣れ親しんだものだ。
「お疲れさん、颯太。今日の手術、なかなか良かったじゃないか」
真田先生はニヤリと笑いながら、颯太に近づいてきた。
「ありがとうございます。木村先生が急遽いなくなって、正直緊張しましたけど、なんとか…」
「いや、木村先生が抜けた後も、よく冷静に判断してたぞ。パッチを当てるときなんか、完璧だったよ。だが…」
真田先生は少し間を置いて、颯太の目をじっと見つめた。
「やっぱり、細部の手つきがまだ少し荒い部分があったな。特に縫合だ。スピードは申し分ないが、もっと滑らかにやらないと、将来もっと厄介な症例で苦労するぞ」
その指摘に、颯太は反論するのではなく、真田先生の言葉をしっかりと受け止めた。以前なら、ただ聞くだけだったが、今は違う。自分なりの意見も持っている。
「確かに縫合部分は少し焦っていたかもしれません。でも、血流の確保を優先して、早めに処理したほうがいいと判断しました。もちろん、もっと丁寧にやるべきだった部分もありますが…それが今後の課題です」
颯太のその言葉に、真田先生は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに満足そうに頷いた。
「ほう、成長してるじゃないか。今までだったら、俺の言うことをただ聞いてるだけだったのにな?」
真田先生は再び笑みを浮かべた。
「颯太。それでいい。自分の考えを持ったうえで手術を行い、指摘されたことを修正し、さらなる改善を目指して努力する。それができるようになったら、君は本物だ」
「はい。これからも、もっと成長していきたいです。今日の手術は成功しましたが、それも木村先生と藤井先生…それに真田先生がいるという安心感があったからこそです」
「そうだな。ただ、医者たるもの、手術をするだけが治療ではない。これからのフォローも怠るなよ」
真田先生と颯太は、今後の治療について議論しながら、ICUへ急いだ。
颯太はICUに到着し、静かに扉を開けて中に入った。桜はまだベッドで眠っている。麻酔が残っているため、意識はないが、様子は落ち着いているようだ。
ICUのモニターには桜のバイタルが映し出され、規則的な心拍音が聞こえている。彼女がしっかりと命をつないでいる証だ。
ICUの看護師さんの記録にも目を通しながら、モニターを確認し、心拍、血圧、酸素飽和度などの数値を確認する。すべての数値は安定しており、問題ない。
「よし」
颯太は小さな声で呟いた。
桜の全身状態を診察するため、彼女の顔を見て、皮膚の色や呼吸の状態を確認する。顔色は落ち着いており、呼吸も安定していた。手足をそっと触り、冷たさがないことを確認する。末梢への血液循環が問題なく行われていることがわかる。
「よし、問題なさそうだ」
一つ一つの確認作業が終わるたびに、颯太の胸には少しずつ安堵の気持ちが広がっていった。
颯太は桜の横にある椅子に腰を下ろし桜の寝顔を見つめていた。彼女の頑張りと、医師として自分の役割を全うできたことに、少しだけ誇りを感じていた。