木村先生の号令とともに、心臓を停止させるための心筋保護液が注入され、人工心肺に接続された。機械が心臓の代わりに全身へ血液を循環させ、桜の心臓はゆっくりと静止していった。
「これから右室流出路の確認に入る。神崎くん、まずは切開だ」
颯太は丁寧にメスを持ち、指示に従い桜の胸部を切開した。次に、右室流出路と肺動脈弁を確認するため、胸骨を正中切開し、心臓を慎重に露出させる。桜の心臓が目の前に現れ、目視で確認できた。肺動脈狭窄が明確に見える。やはり思った通り右室がやや肥大していた。
木村先生がさらに指示を続ける。
「右室流出路を縦に切開する。肺動脈弁の状態を確認しよう」
颯太は木村先生の指示に従い、右室流出路の壁にメスを入れた。切開した部分から、狭窄している肺動脈弁が露わになった。明らかに狭くなっている弁口が確認できる。
「思った以上に狭い。慎重に行こう」
木村先生の指示のもと、颯太は肺動脈弁を観察した。弁尖が肥厚し、正常な血流を妨げている。木村先生は指示を出しながら、弁尖の一部を慎重に切除し、血流を確保するための空間を作る。
「右室流出路の拡大パッチの準備を。肺動脈の血流をスムーズにするために、この部分を拡げていく」
「ここまで順調だ。もう少しだぞ」
木村先生の声が響き渡り、手術室の緊張が少し和らいだ。しかし、まだ油断はできない。
手術が順調に進んでいる中、突然、手術室の扉が開き、藤井先生が慌ただしく入ってきた。彼は緊迫した表情で木村先生に声をかけた。
「木村先生、緊急のオペが入りました。至急お願いします」
木村先生は手元の作業を中断せずに、短く返事をした。
「鷹野先生に依頼しなさい」
しかし、藤井先生はその言葉を聞いても引き下がらなかった。
「鷹野先生は別の救急対応に入っています。木村先生しか対応できません。鷹野先生が木村先生を指名していて…」
木村先生は一瞬手を止め、深く考え込んだような表情を浮かべた。桜の手術は順調だが、これからが最も大事な局面だ。木村先生はちらりと颯太を見やった。
「桜ちゃん、まかしてもいいかい?」
木村先生の問いかけに、手術室全体が緊張に包まれた。
颯太は一瞬、心臓が止まるような感覚に襲われた。責任の重さを感じ、思わず断ろうと口を開きかけたが、横から真田が穏やかに声をかけた。
「颯太。できるだろう?俺とあれだけシュミレーションを重ねたんだから」
真田先生の励ましに、颯太は少し息を吐き、深く考えた。これまでの訓練や準備が頭に浮かぶ。何度も何度もエコーを見てシュミレーションで手術をしてきた。それに、桜ちゃんや木村先生の信頼にこたえたい。颯太は木村先生を見つめ、深く頷いた。
「任せてください」
木村先生は颯太の決意を受け取ると、満足げに微笑んだ。
「よし、頼んだ。何かあったらすぐに連絡してね」
そう言って木村先生は手術室を後にした。颯太は緊張感を押し殺し、深く息を吸い込んで手術に集中し直した。これからは自分の手に桜の命、未来がかかっている。
真田も颯太の隣に立ち、静かに支えていた。
第一執刀医の位置にたつと、向かいには藤井先生がたった。
「よろしくお願いします」
颯太がまっすぐに藤井先生を見つめていうと、藤井先生も、小さく頷いた。
藤井先生は颯太と同じ年齢だが、経験豊富な医師で、厳しい状況でも冷静さを保つことで知られていた。彼の存在は颯太にとって心強い。
「よろしくお願いします」
「…よろしくお願いします」
藤井先生は短く頷き、静かに応えた。これからが本当の勝負だった。
手術室内は再び緊張に包まれ、全員の意識が手術台の上の桜に集中する。颯太は深く息を吸い込み、気持ちを落ち着かせながら、心臓の細部に視線を戻した。既に開いた胸部には、狭窄している肺動脈弁と肥厚した右室が現れている。ここからは慎重に、そして確実に進めていかなくてはならない。
「まずは肺動脈弁の弁尖の残り部分を切除し、血流をさらに確保していきます」
颯太はメスを丁寧に持ち、木村先生が先ほど進めた手順を引き継ぐ形で、肺動脈弁の肥厚した部分を確認した。弁が開閉するスペースが限られているため、血流が十分に送られない原因が明らかだ。
「弁尖、肥厚が顕著ですね。少しずつ切除していきます」
メスが慎重に弁尖に当てられ、細かく切除が進められていく。手元を微細に動かしながら、弁の形状を整え、血流がよりスムーズに流れる空間を作っていく作業。緊張が手術室全体を包む中、颯太の集中力は一層高まった。
「いい感じだ、弁口のスペースが確保できたな。次に右室流出路の拡大に入れ」
真田先生が確認の声を出し、次の段階に進む。右室の壁に負担がかからないように、パッチを用いて拡大する手術に移行する。
「パッチをお願いします」
看護師が用意したパッチを受け取り、颯太はそれを右室流出路に丁寧に当てた。パッチの大きさと形状を確認しながら、慎重に縫合を進める。
「ここは特に血流が強いから、縫合はしっかりと行うんだ」
真田先生の言葉に颯太はゆっくりと頷く。
縫合糸を正確に通し、パッチが確実に固定されるように丁寧に進めていく。1ミリのズレも失敗も許されない。藤井先生もその手元をしっかり見守っていた。
(神崎と手術に入ったのは初めてだが…なんて手つきが早いんだ…)
藤井先生は、颯太の手元をじっと見つめている。
最後の縫合を終えると、右室流出路の形が整い、予定通り血流の確保が完了したはずだ。
「よし…心筋保護液を除去して、心臓を再び動かします。人工心肺の準備を進めてください」
まだ、手術は終わりではない。血液を流してからが本番だ。出血がないか…漏れがないか…細心の注意を払わなければならない。
颯太は呼吸を整え、またさらに集中させた。ここからは心臓の再起動だ。人工心肺が除去され、桜の心臓が再び動き出す瞬間が迫っている。
心筋保護液が徐々に排出され、静かに待機していた心臓が再び鼓動を打ち始めた。最初は小さく、次第にリズムが安定していく。モニターに映る心拍が安定するのを確認し、手術室全体に安堵の息が漏れた。
「心拍、正常に戻りました」
看護師が報告し、藤井先生も満足そうに頷いた。
「血流も問題ない。これで右室流出路も広がり、血液が十分に循環する。完璧だ」
真田先生が声をかけると、颯太は深く息を吐き、肩の緊張を少しだけ緩めた。
颯太は、深呼吸をして最後の確認作業に取りかかった。肺動脈狭窄の手術が終わったとはいえ、油断は禁物だ。血流の状態や出血の有無を細かく確認する必要があった。
「まずは血流の確認から始めます」
颯太は慎重にモニターを見つめ、桜の心臓内を流れる血液の動きをじっくりと観察した。右室流出路が拡大され、血液はスムーズに流れているのを確認できた。モニター上でも、血流が正常に戻り、右室に負担がかからず全身に血液が行き渡っていることがはっきりとわかる。
「血流、良好です。問題ありません」
次に、出血の有無を確認する作業に移る。切開した部分や縫合した箇所に注意を払いながら、慎重に血液が漏れていないか確認していく。顕微鏡の下で一つ一つの縫合糸を目視し、隅々まで確認を怠らない。細かい血管や組織がしっかりと結びついていることを見届け、出血の兆候は一切見られなかった。
「縫合部分も問題ありません。出血は見当たりません」
颯太は真田先生と藤井先生に確認の結果を報告すると、二人もその作業をじっと見守り、同じく頷いた。真田先生が再度、右室流出路と肺動脈弁を確認し、静かに言った。
「血流は完璧だな。出血もない。これで手術は無事に終わりそうだ」
颯太が肩の力を少し抜き、手術室に穏やかな空気が流れた。長い緊張の時間がようやく終わりを告げ、桜の心臓が再び安定して動き出したことに、誰もが安堵していた。そして、すべての縫合が終わり、
「これで終了です。お疲れ様でした」
颯太が静かに告げ、手術は幕を閉じた。