葬儀が終わったあとも、会社の配慮で、秀臣は無期限で休職となった。妻の葬儀や新生児の世話が大変だろうという、上司の心遣いだろう。
しかし、葬儀が終わってから1週間、秀臣は一歩も外に出ることが出来なかった。気遣った両親が毎日顔を出し、身の回りのことをしてくれたが、なんの感情もわかないのだ。
人間は、悲しい…辛い…寂しい…それを超えると、「無」になると知った。
この日も、いままでまったく飲まなかった酒を昼間から飲み、楓の骨壺を抱きしめ、ソファでうとうとしていた。そんなとき…
ごとん
鈍い音が響いた。秀臣はぼんやりと振り返った。そこには、あの日、楓が持っていた荷物が散乱していた。棚の奥深くにしまい込んだはずの荷物が、まるで楓が彼に何かを伝えようとしているかのように、無造作に床に広がっていたのだ。
その中で、ひときわ目を引いたのは楓がいつも使っていたオレンジ色のスケジュール帳だった。落ちた拍子に開かれたページは、妊娠がわかった日付だ。一枚一枚めくっていく。
「秀さんと私の赤ちゃん、幸せ」「赤ちゃんの性別、女の子!秀さん喜んでくれるかな?」「来週から36週、赤ちゃんに早く会いたい」
ページには見慣れた楓の手書きの文字が並んでいた。彼女の整った筆跡が、まるで生きているかのように秀臣の目に飛び込んでくる。
「10:00 AM:検診」「12:30 PM:出産の打ち合わせ」「15:00 PM:お散歩」など、細かく書かれたスケジュール。そして、最後に書かれていたのは、簡単な一文だった。
「秀さんと赤ちゃんに会える日。命に代えても守る」
その一文が、秀臣の胸に鋭く突き刺さった。楓は、あの日をどれほど待ちわびていたのだろうか。どれほど喜びと期待を抱いていたのだろうか。彼女の無邪気な希望が、このスケジュール帳に刻まれていた。
秀臣はスケジュール帳を握りしめ、その場に座り込んだ。これまで押し込めていた感情が、急激に胸の奥から溢れ出してきた。涙がとめどなく流れ、秀臣はその場で声をあげて泣いた。悲しみ、悔しさ、そして楓への愛がすべて一つになって彼を包み込んだ。
「楓…ごめん…俺、こんなに弱くて…ごめん…」
何度も何度も、彼は楓に謝り続けた。そしてその時、彼はようやく自分が逃げていた現実に向き合う決意を固めた。楓が残してくれたもの、それを守り抜くことこそ、彼がこれから生きていく理由になる。
ゆっくりと涙を拭いながら、秀臣はスケジュール帳を胸に抱きしめた。まだ時間はかかるかもしれないが、前を向こう。楓が望んでいた未来を、自分が繋げていかなければならない。
翌日。秀臣はついに決心し、NICUにいる娘に会いに行った。病院の冷たい廊下を歩きながら、心臓が高鳴る。これまで一度も足を踏み入れることができなかった場所。扉の向こうで待っているのは、彼が今まで逃げてきた現実だ。
NICUに入ると、温かく包み込むような静かな雰囲気が漂っていた。医師や看護師たちは忙しそうにしていたが、秀臣の顔を見ると、誰一人として彼を責めるような態度を見せるものはいない。むしろ、温かい笑顔で彼を迎えてくれた。
「お父さん、どうぞこちらへ。娘さんはとても元気ですよ」
看護師が優しく声をかけ、秀臣を娘のベッドサイドに案内した。そこには、小さな体で一生懸命生きている赤ちゃんがいた。秀臣はその姿を見つめ、胸がいっぱいになった。これまで感じたことのないほどの愛情が湧き上がってきた。
「遅くなって…ごめん…」
秀臣は静かに呟き、そっと赤ちゃんの小さな手を握った。まだ弱々しいその手を守るのは自分しかいない。
数日後、両親から言われて初めて、出生届の提出期限が迫っていることに気がついた。楓と話し合って名前を決めるつもりだったが、その計画は叶わなかったため、秀臣は何も考えていなかったのだ。彼は再び楓のスケジュール帳を手に取り、名前の候補が書かれていないかとページをめくった。
すると、最後のメモ欄にたくさんの名前が書かれているページを見つけた。その中には、楓が思い描いた未来の子供たちの名前が並んでいる。秀臣はそれを一つ一つ読み上げながら、最後に見つけた名前に目がとまった。
「桜…」
その名前には、小さな〇がつけられていた。楓がこの名前を選んでいたのだと知った秀臣は、自然と微笑みが浮かぶ。どんな顔でこれをかいたのか想像し、彼女の思いが伝わるような気がしてふっと微笑んだ。そして、迷わずその名前を出生届に記入した。
「桜…いい名前だ。これから一緒に生きていこう」
秀臣は出生届を提出した。楓がつけてくれたその名前。楓が残してくれた思い。
楓との思い出が詰まった部屋を手放すことは、どうしてもできなかった。楓とともにそこで過ごした日々が、彼にとっては唯一の支えだった。それを理解してくれた両親は、献身的にサポートを続けてくれた。家事や育児に疲れたときには、さりげなく手を差し伸べてくれる両親の存在が、秀臣にとって大きな力となった。
秀臣は桜を抱きながら、楓との思い出に包まれた部屋で、少しずつ前を向いて生きていく。楓の願いを胸に、桜と共に新しい人生を歩み始める日々が始まった。
桜が生まれてから数か月が経ち、秀臣は少しずつ育児に慣れ始めた。桜の成長を見守りながら、楓の面影がどんどん色濃くなっていく娘に対して、秀臣は愛おしさでいっぱいになった。
そんなある日、医師から桜に「ファロー四徴候」が見つかったと告げられた。大切な人を失ったあの恐怖が鮮明に秀臣の頭に蘇った。
医師から桜の状態について説明を受けたが、秀臣は頭に入ってこず、声も出なかった。まるで過去の悪夢が再び襲ってきたかのような感覚に襲われ、秀臣はその場を離れたくてたまらなかった。
仕事を言い訳に、通院や手続きを両親へ頼むほどだ。
手術の日が決まると、秀臣は再び恐怖に押しつぶされそうになった。手術当日も、秀臣は手術室の前でただただ不安に押しつぶされながら待つことしかできなかった。楓の写真と、あのバッグにつけていた安産祈願を手に握りしめて待った。
桜の手術は無事に成功したが、その後も、検診の日が来るたびに、秀臣は結果を直接聞くことができず、両親に代わりに聞いてもらっていた。医師からの報告を受けるたびに胸が締め付けられ、結果が良好だと聞くと、ようやくほっとすることができた。しかし、桜が日に日に大きくなり、楓にますます似てくるその姿を見るたびに、またいつか失うのではないかという恐怖が消えることはなかった。
その一方で、秀臣は桜に不自由な思いをさせまいと決意し、仕事に全力を注いだ。片親だからといって我慢を強いることがないように、秀臣は昼夜を問わず働き続けた。両親も愛情いっぱいに桜を育ててくれていたので、仕事に没頭できた。秀臣の努力は実を結び、次第に出世の道を歩んでいった。
しかし、出世するにつれて、娘との時間を取ることが次第に難しくなっていったのも事実だった。ただでさえ不器用な秀臣は、仕事と育児のバランスを取ることができず、いつの間にか桜との距離が広がり始めた。
秀臣は、桜のために働くことが最善だと思っていたが、その分娘との時間が削られていることに気づく余裕がなかった。
桜もまた、父親との時間が減るにつれて、次第に寂しさを感じるようになったが、それをうまく伝えることができなかった。やがて、秀臣と桜の間に目に見えない溝が生まれ、それは少しずつ広がっていった。
桜は成長するにつれ、愛情を感じたい反面、忙しさにかまけて自分から遠ざかっていく父親に、どう接していいのかわからなくなっていた。それでも桜は、父親を喜ばせるために努力し続けたが、そのたびに秀臣との距離は縮まるどころか、逆に遠ざかっていくように感じられた。
秀臣もまた、桜との間に感じる違和感を薄々感じていたが、それが何であるかを理解することができず、どう対処すべきか悩み続けていた。桜のためにと働くことが、いつしか桜を傷つける結果になっていることに気づけなかったのだ。
秀臣の心の中には、楓を失った痛みと、桜を守りたいという強い思いが常に葛藤していた。だが、その葛藤の中で、本当に大切なものを見失いつつあったことに、この時の彼はまだ気づいていなかった。