今から16年前の春。
桜の蕾がつきはじめたばかりのその日。
仕事中に鈴木秀臣は臨月に入ったばかりの妻、楓(かえで)から電話がかかってきた。
結婚して3年たつが、楓が会社にかけてくることは初めてのこと。
(今朝、お腹が張る感じがあると言っていたから、いよいよ出産が始まったという連絡かもしれない)
秀臣は少しの期待と不安の中、受話器に耳をあてた。
「秀さん、どうしよう!今、出血しちゃって…止まらないの!救急車呼んだんだけどまだ来なくて…いたたた…」
「出血って……」
「普通と違う。すごい量だもん。どうしよう。あっ…救急車来たみたい…産院に向かうね」
「わかった。俺も産院に行く。救急隊が来るまでじっとしてて」
「うん…秀さん…私に、もしものことがあったら赤ちゃんをお願いね」
「なんてことを…とにかく、すぐ行くから!」
秀臣は急いで職場を飛び出し、車に駆け込んだ。不安で心臓が激しく鼓動する中、頭の中でさっきの電話で聞いた、楓の声が何度も反響していた。
「もしものことがあったら…」
その言葉が秀臣の胸を締めつける。両頬をパチンとたたき、息をつき、急いで車を発進させ、出産予定の産院へ向かった。
産院は秀臣の職場からすぐ行けるように、車で10分ほどの産院を選んだ。まだ新しく評判もいい産院だと、楓は大喜びだった。仕事が忙しく一緒に検診を受けたことはなかったが、楓が嬉しそうに話して聞かせる姿が目に浮かんだ。
職場から産院までの道路は平日の昼間なので比較的空いていたが、この距離が今では遠く遠く感じる。
やっとの思いで産院に到着し、息を切らしながら受付に駆け込んだ。
「つ、妻が出血しているって…楓が運ばれてきたはずなんです!鈴木楓です!」
秀臣は息を切らし、頬を伝う冷や汗をハンカチで拭いながら必死に伝えた。受付の女性は一瞬眉をひそめたが、すぐにカルテを確認した。
「鈴木楓さんですね。すぐに確認します。少々お待ちください…鈴木さん、奥様は産院では対応しきれない状況だったため、すぐに総合病院に搬送されました」
対応しきれない状況…?!
秀臣は血の気が引くのを感じた。
「ど、どこの病院ですか?すぐに向かわなければ…」
「ヒイラギ総合病院です。救急車で運ばれたので、すでにそちらに到着しているはずです」
教えてもらった病院を聞き、秀臣はすぐに車に乗り込み、全速力で総合病院へ向かった。産院からは15分ほどの距離にある病院だ。頭の中では、楓とこれから生まれてくるはずの赤ちゃんのことが交互に浮かんでは消える。
病院に到着し、秀臣は急いで受付に駆け込んだ。
「妻が…鈴木楓が救急車で運ばれてきたはずなんです!ぼ、僕は鈴木…鈴木秀臣です」
受付の女性はパソコンでなにやら操作をしたあと、秀臣をじっと見つめた。
「奥様…鈴木楓さんですね。3階の手術棟前でお待ちください」
「さ…3階…」
秀臣は息をつく間もなくエスカレーターをかけのぼった。病院内で走る秀臣を不審な顔ですれ違う患者や家族が見ていたが、もうそんなことは問題ではなかった。
3階手術室にいくと、手術室がいくつもある棟のようだ。妻はどこにいるのか…誰に聞けばいいのかわからないまま、椅子に座ったり、すぐに立ち上がり、廊下を行ったり来たりと繰り返した。時間が経つのがあまりにも遅く感じられる。
やがて、手術室棟のドアが開いた。手術着だろうか?眉間に皺をよせた男性が話しかけてきた。
「鈴木楓さんのご家族でしょうか?」
「はい…夫の鈴木秀臣です…先生、妻は…赤ちゃんは…どうなりましたか?」
医師は一瞬言葉を選ぶように沈黙した後、静かに告げた。
「お子さんは無事です。ですが、奥様の状態が非常に厳しい…出血が多く、我々も全力で対応していますが、予断を許さない状況です」
秀臣の世界から一瞬で音と色がなくなる。数分ののち、呼吸も忘れていた秀臣がごほっと咳をし、はっと我にかえる。
「楓は…助かるんでしょうか?」
「できる限りのことをしていますが、どうか祈っていてください」
そう言い残し、再び手術棟へ戻っていった。
秀臣はその場に立ち尽くし、祈るように両手を握りしめた。時間が止まったかのように感じられる中、ただ楓と赤ちゃんの無事を願い続けた。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。秀臣は窓の外をぼんやりと見つめていた。夕日が空を染め、雲が高く漂いながら、昼と夜の間で穏やかなバトンタッチが行われている。空の青と赤が溶け合うその光景は美しい。しかし、そのどれもが、遠い世界のように感じられた。
足音が聞こえる。秀臣は反射的に顔を上げた。さきほど顔を出した医師が、眉間に深い皺を寄せ、再び手術棟から現れた。彼の横には、同じような手術着を身にまとった女性医師が一人。そして、その後ろには看護師と思しき女性が一人控えていた。
医師たちの表情は厳しく、空気が重い。秀臣の心臓が再び激しく鼓動をうつ。何かを言わなければならないのに、言葉が出てこない。何も考えられない。
医師がゆっくりと秀臣の前に立ち、言葉を選ぶように口を開いた。
「鈴木さん…大変申し訳ありません。奥様は…」
その一言で、秀臣の体が硬直した。呼吸が早くなる。耳はすべての音を拒絶するように、音が遠くなり、背中を冷たい汗が流れた。
「奥様の命を救うために全力を尽くしましたが、残念ながら…助けることができませんでした…」
秀臣はその場に崩れ落ちた。言葉が頭の中で響いては消え、現実を受け入れることができない。医師の声は続いた。
「お子さんは無事に生まれました。今はNICUで経過を見ています」
女性医師が前に進み出て、秀臣の肩にそっと手を置いた。
「お子さんの命を守るために、奥様は最後まで…とても強い意志で頑張っておられました。これは…搬送された時に持っておられた荷物です」
看護師がそっと寄り添い、柔らかい声で「お子さんはとても元気です。すぐに会えますよ」と告げた。
秀臣の視界は涙で滲み、言葉にならない叫びが喉の奥から込み上げてくる。しかし、声に出すことはできず、ただ涙が頬を伝って落ちていった。
医師たちが深く頭を下げる中、看護師に促され、秀臣はNICUへ向かった。しかし、扉の前で足が止まってしまった。中に入ることができない。どんな顔をして自分の赤ちゃんに会えばいいのかわからない。楓がいたからこそ、秀臣の世界は輝いていた。彼女と出会ってから、彼の世界の中心はずっと楓だった。いくら楓が残した命だとしても、それは彼女ではないのだから…。赤ちゃんを前に、自分が酷く残酷な思考に陥りそうになることを感じ、動けなくなった。
看護師が固まる秀臣を見て察したのか、優しく声をかけた。
「落ち着かれてからでもいいですから…」
その言葉に、秀臣はただ黙ってうなずいた。楓が残してくれた赤ちゃん。赤ちゃんと楓と自分。楽しみにしていた光景が頭をかすめた。心の中に湧き上がる感情が自分でも整理できない。
数日後、楓の通夜が静かに行われた。親族や友人たちが集まり、楓の死を悼んだが、秀臣はどこか現実感がなく、すべてが夢の中の出来事のような心地のまますすむ時間。ほんの数日前までは横で笑っていた楓が一瞬で逝ってしまった。彼は通夜の間、楓の写真をじっと見つめた。彼女の笑顔や思い出が溢れてくる。何度も静かに涙が勝手に流れて落ちていった。
葬儀が終わると、秀臣は一人きりになった二人の部屋へ帰ることにした。
秀臣を心配した親戚は、しばらく帰らないほうがいいとアドバイスしたが、秀臣はとにかく1人になりたかった。
楓の生きていた痕跡を探したかった。
楓に会いたかった。
部屋に入ると、そこには楓の気配がまだ残っていた。彼女が使っていた化粧品や、彼女の好きだった香りの柔軟剤で洗ったタオルが、そのままの場所に置かれていた。
洗濯物をたたむ途中だったのか、畳みかけの洗濯物たち。
彼女が大切にしていたぬいぐるみたちがあの日と同じように座っていた。ただ一人、そこには楓だけが欠けていたさ。
秀臣は手に持っていた骨壷をそっと抱きしめ、床に座り込んだ。
「楓…」
何度も名前を呼びながら、泣き崩れた。涙は止まることなく流れ続け、一晩中、彼は楓の骨壺を抱きしめながら泣き明かした。
夜が明ける頃、秀臣はふと、楓が最後に持っていた荷物を思い出した。そこには彼女が病院に運ばれる前に準備していた赤ちゃんのための小さな衣服や、おむつ、母子手帳が入っていたはずだ。しかし、彼はそれを開ける勇気がなく、そのまま荷物を棚にしまい込むことにした。
あの日から、秀臣は何度もNICUに足を運ぼうとしたが、どうしても扉を開けることができないでいる。楓がいなくなった現実に耐えきれず、我が子に会うことが怖い。