その日の終業後、颯太は屋上でコーヒーを片手にベンチに座っていた。空は夕焼けに染まり、風が穏やかに吹いていた。
「颯太。考え事か?」
颯太がふと顔を上げると、隣にはいつものように真田先生が立っていた。彼は柔らかい笑みを浮かべ、颯太の隣に腰を下ろした。
「真田先生…」
颯太は、手元のコーヒーを飲みながら、ゆっくりと口を開いた。
「鈴木桜さんの手術、絶対に成功させたいです」
その言葉には、颯太の強い決意が込められていた。彼にとって、この手術は単なる医療行為以上の意味を持っていた。桜が抱えてきた孤独や不安、そして今日、目の当たりにした父親との絆を取り戻したい。もっと父親と穏やかにこれまでの日々をうめる時間を作ってあげたい。ようやく、生きたいと思ってくれた桜の心もむくいたい。
「その意気だ、颯太。今回、お前は第一執刀医ではないけど、いつでも交代できるように準備しておけ。手術は生き物だからな、何が起こるかわからん」
「はい、しっかりと準備しておきます。もし何かあったときに備えて、万全の態勢で臨みたいです」
颯太はそう答えた。彼の目には迷いがない。真田先生はその決意を見て満足げに頷いた。石田悠斗君を手術した時とは違う人物のように目が輝いている。
「よし、それならシミュレーションをしてみるか。今から俺が手術の過程を誘導する。目を閉じて、実際に手術をしていると想像してみろ」
真田先生の言葉に、颯太はコーヒーをゆっくりとベンチにおき、深呼吸をして目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、手術室の光景だ。緊張感が漂う中で、自分の鼓動が速くなるのを感じる。
「まず、胸骨正中切開だ。しっかりと手の感覚を意識しろ」
真田先生の声が、颯太の耳に響いた。目を閉じたまま、メスを握り、正中線に沿って切開する感覚をイメージした。
手術台の上に広がる胸部、骨が露わになり、手術のスタートを告げる緊張が颯太の体に走った。
「次に、人工心肺の準備だ。慎重に血管と機械をつなぐカニュレーションを行おう」
颯太は心臓が静止し、人工心肺が血液循環を代行する過程を想像した。冷静に、しかし迅速に行動する自分の姿が目に浮かんだ。真田先生の声は続く。
「右室流出路を切開する。ここが狭窄の部分だ。拡大形成を行うために、ePTFEパッチを使用するんだ。これはテフロンを特殊な処理した特殊な合成素材だ。ePTFEパッチは時間経過とともに体の組織と融合するし、異物反応も起こしにくい優れた素材なんだ」
颯太は心の中でメスを持ち、その動きを細心の注意を払って行う。
狭窄した部分にメスを入れ、流出路を拡げる。パッチを正確に配置し、血流がスムーズに流れるように調整する。真田先生の声が、彼の意識を導いていく。
「心臓の弁の周りをとりかこんでいる弁輪を温存しつつ、交連切開だ。弁輪は弁を支える大臣機関だからな。細心の注意を払え」
颯太は真田先生の指示に従い、弁口を拡げるイメージを頭の中で描いた。弁の動き、血流の流れ、それらすべてが彼の意識の中でリアルに再現されていく。
「手術はまだ続くぞ、集中を切らすな。右室流出路の再建だ。弁付き流出路パッチを使い、確実に固定しろ。全身状態にも気を配るんだ」
颯太は流出路にパッチを正確に配置し、心臓の動きを頭の中でシミュレートしながら、慎重に縫合していった。彼の心の中で手術は進行する。
「さあ、人工心肺を解除し、心臓を再び動かす。心拍が正常に戻るか、しっかり確認しろ」
颯太は心臓が再び鼓動を始める瞬間を想像した。手術が無事に終わり、心臓が正常に機能していることを確認する瞬間の緊張と安堵が、彼の全身に広がった。
しばらくの静寂が流れた後、真田先生の声が優しく響いた。
「どうだ、颯太。手応えは?」
颯太は目を開け、深呼吸をした。彼の顔には集中の汗が浮かんでいたが、その目には自信が宿っていた。
「はい。もう一度お願いします」
真田先生は満足げに微笑んだ。
夕日の輝く屋上で、颯太は真田先生と手術の練習を続けた。朱色に染まる空の下、彼の手は目の前に広がる無形の手術台に向かって、まるで本番のように動いていた。真田先生の声が耳に届くたびに、彼の手の動きはさらに正確さを増し、集中力が高まっていく。
「よし、次は右室流出路の拡大だ。メスを入れる角度と力加減を意識して」
真田先生の声に従い、颯太は慎重にメスを動かす。彼の手が空中を切り裂くたびに、手術のシーンが目の前に広がるようだった。心臓の形、血管の走り、血流の感覚…すべてが鮮明にイメージされていた。
「そうだ、いいぞ。その調子で進めていけ」
真田先生が指示を続ける中、颯太は一心不乱に手術のシミュレーションに集中していた。
その時、屋上の扉が静かに開き、藤井先生が屋上に足を踏み入れた。彼は軽い足取りで歩きながら、ふと視線を前方に向けた。そして、異様な光景が目に飛び込んできた。
独り言をつぶやきながら、空中に向かって何かをしている颯太の姿。それはまるで、見えない相手に向かって手術を行っているかのようだった。
「…神崎?」
藤井は立ち止まり、目を細めた。そこには、真剣な表情で空中に向かって手を動かし続ける颯太の姿。彼には、当然真田先生の姿は見えていない。代わりに、孤独に訓練を続ける颯太の姿が、まるで狂気じみたものに見えていた。
「一体何を…?」
藤井先生は不審な表情でその様子を見守ったが、声をかけるべきかどうか迷ったまま、ただ立ち尽くしていた。
颯太はその視線に気づくことなく、真田先生の指導に従い続けていた。彼の心の中で、シミュレーションがますますリアルに進行していく。そして、真田先生の声が再び響いた。
「最後に、心臓を動かすぞ。人工心肺を解除して、心臓が再び鼓動を始める瞬間を確認するんだ」
颯太は深呼吸をし、目の前で再び鼓動を始める心臓をイメージした。血液が流れ出し、心臓が生命のリズムを取り戻す。
「よし、完璧だ。お前ならやれる、颯太」
「必ず。絶対に成功させてみせます」
遠くから見ていた藤井先生は、目の前の異様な光景に、何か言いたげに唇を動かしたが、そのまま何も言わずに踵を返し、屋上を後にした。