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第10話

木村先生が病室のドアをノックすると、中からか細い桜の声が聞こえた。


「桜ちゃん、木村です。入っていいかな?」


「はい」


木村先生、颯太、由芽、そして父親の秀臣が病室に入ると、桜は最初、薄く微笑んでいた。しかし、父・秀臣の姿に気づくと、その微笑みはすぐに消え、みるみるうちに表情が険しくなっていった。


桜の視線は鋭く、秀臣に向けられていた。秀臣はそんな娘の反応に一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに自分を奮い立たせるようにして声をかけた。


「桜、体はどうなんだ…」


その声は思ったよりも弱々しく、どこか不安げだった。だが、その問いかけにも桜の態度は変わらない。桜は目を逸らし、そっけなく答えた。


「…別に」


短い言葉が部屋に響き渡る。その瞬間、部屋の空気が一気に重くなった。桜の冷たい返答は、まるで一切の感情を閉じ込めてしまったかのようだ。

桜の視線は冷たく、秀臣を拒絶するように鋭いものだった。

その目は「なぜ今さらここに来たの?」と言わんばかりに、父親を責め立てるように見えた。


秀臣は何度か口を開こうとしたが、言葉が喉に詰まったようで、結局何も言えなかった。桜の言葉に対する返事を探すように、必死で頭を巡らせるが、思い浮かぶのはただ、これまでの自分の行動に対する後悔ばかりだった。


二人の間に流れる沈黙は、まるで深い溝を感じさせた。親子でありながら、心が通じ合わず、遠く隔たってしまったその距離感。桜は父親に対して、積み重なった不満や失望、そして悲しみを抱えているのだろう。それが今、冷たく硬い表情となって現れていた。


秀臣はそんな娘の態度にどう接していいかわからず、ただ困惑した表情で立ち尽くしていた。その姿は、父親としての自信を完全に失った男の姿だった。彼の言葉が出てこない理由は、桜の態度だけでなく、自分自身が桜に対してどう接するべきか、その答えを見失っているからに違いなかった。


「桜ちゃんの病状を説明させてもらっていたんだ。検査結果が出そろったからね。桜ちゃんにも今から説明をしたいんだけど、いいかな?」


沈黙を破るように、木村先生がいつもの穏やかな調子で話し始めた。優しい口調と柔らかい笑顔は、病院の緊張感を少し和らげる。

桜は一瞬、父親から視線を木村先生に移し、次にその視線を颯太に向けた。どこか迷いがあるような、何かを決心しようとしている、不安げな瞳が揺れていた。少し考えるように沈黙した後、桜は小さく頷いた。


「…お願いします」


その声は、かすかに震えていた。

木村先生は頷き返し、桜の表情を見ながら、できるだけわかりやすい言葉で説明を始めた。


「今回の検査で、桜ちゃんの肺動脈の狭窄がかなり進行していることがわかったんだ。これが原因で血液の流れが妨げられていて、酸素が十分に体全体に行き渡っていない状態なんだ。特に、疲れやすかったり、息切れが激しくなったりするのは、この影響が大きいと思う」


桜は木村先生の話に耳を傾け頷いた。木村先生は桜の反応を見ながら、ゆっくりと話をすすめていく。


「このまま放っておくと、桜ちゃんの体にさらに負担がかかることが予想される。だから、早急に手術をする必要があると考えているんだ。肺動脈の狭窄を解除する手術で、桜ちゃんの体の負担を軽減できるはずだよ」


桜は一瞬、顔をしかめた。手術の言葉に反応したのだろう。

木村先生は桜のその反応を見逃さず、さらに言葉を続けた。



桜はしばらく沈黙していた。木村先生の言葉が耳に入っているはずなのに、その意味がどこか遠くで響いているような感覚がしていた。手術を受けるかどうかの決断は、彼女の命に直結する重要なものだと分かっている。しかし、彼女の心はそれを素直に受け入れられずにいた。

以前、颯太に思わずぶつけたように、生きる意味を見失っているのかもしれない。いや、生きる意味なんて…漠然とした虚無感が、再び彼女の胸に押し寄せてきた。

自分が生きていても…みんなの負担になるだけならば…


「…少し考えさせてください」


桜の声はか細く、どこか力が抜けたような響きだった。彼女の瞳が、すべてを諦めたように暗く濁ったように見える。

桜は、自分の命がこれほどまでに脆く、儚いものだと感じたのは、これが初めてではなかった。彼女の瞳はどこか空虚で、医師たちとの間に深い溝ができているように感じていた。命を諦めている桜と、命を救う医者。その差は雲泥の差なのだろう。


その時、父親の秀臣が静かに桜の元へ歩み寄った。彼の足取りは重く、胸の中に秘めた何かを吐き出すように、一歩一歩を踏みしめるように近づいてきた。秀臣の顔には、深い皺が刻まれていたが、それ以上にその表情には、長い間抑えてきた感情が溢れ出そうになっていることが感じ取れた。


秀臣は桜のすぐそばに立つと、何も言わずに彼女を抱きしめた。その動作はぎこちなく、突然であったが、桜に対する深い愛情と、今まで表現できなかった想いが詰まっているようだった。彼の腕は力強く、桜を守るかのようにしっかりと彼女を抱きしめていた。


「頼む。生きてくれ。諦めないでくれ…」


秀臣の言葉は少ない。秀臣の声は震え、彼の胸に顔をうずめた桜の耳元に、彼の心の奥底から湧き上がる懇願が響いてきた。


桜は驚きと戸惑いで、しばらく動けずにいた。父親の温もりが伝わり、その少しだけ早い心音が自分の心に響いてくる。桜の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。それは自分が抱えていたすべての孤独と不安が溶けていくような感覚だった。


「お父さん…」


桜は震える声で呟いた。それ以上の言葉は出てこなかった。秀臣の胸に顔をうずめたまま、桜はその温もりにしがみつき、父親の愛情を感じ取っていた。


その光景を見守っていた木村先生と颯太、由芽は、ただ黙って二人を見つめていた。秀臣の短い言葉には、彼のすべての想いが込められている。木村先生の目にも、一瞬、涙が光るのが見えた。彼は静かに頷き、颯太に目配せをした。

颯太もまた、秀臣の言葉に胸を打たれていた。これまで桜が話していた父親のイメージとは全く違う姿を目の当たりにし、彼女が抱えてきた孤独と、それを埋めようとする父親の必死な姿に、心が揺さぶられていた。

部屋には静かな時間が流れた。父親の腕の中で泣き崩れる桜と、それをしっかりと受け止める秀臣。その姿は、家族の絆が再び結び直される瞬間を象徴していた。そして、その絆が、桜の心に新たな希望を灯すことを、誰もが感じ取っていた。


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