心臓外科医の病棟の看護ステーション横には、カンファレンス室がある。
そこには、心臓外科医の木村忠男、神崎颯太。病棟看護師の霧島由芽。そして机の向かいには鈴木桜の父親、鈴木秀臣がスーツ姿で座っていた。大きなキャリーバッグを抱えて病院へやってきた彼は、真っ先に桜の病状説明を求めてきたのだ。
「はじめまして。神崎颯太です」
「病棟看護師の霧島由芽です」
颯太と由芽がそれぞれ名刺を差し出すと、桜の父親はそれを自分の前に並べ、深く頭をさげ、自身も名刺を差し出した。
「鈴木秀臣です。桜がお世話になっております」
木村先生は桜の父親、鈴木秀臣に向き直り、手元の資料を確認しながら話し始めた。カンファレンス室の空気が、眉間に深いしわをよせる鈴木秀臣の緊張感とともに重くなるのを感じながら、木村は慎重に説明を始めた。
「鈴木さん、まずはお忙しい中お越しいただきありがとうございます。桜さんの検査結果についてご説明します。結論から申し上げますと、彼女の肺動脈にかなりの狭窄が見られました。これが現在のチアノーゼや息切れ、疲労感の原因となっていると考えられます」
木村は手元の資料を鈴木秀臣に見せ、具体的な数値や画像を指し示しながら続けた。
「桜さんの場合、この、右室流出路が狭くなっており、これにより右心室の負荷が増大しています。右心室流出路の拡大と肺動脈弁の修復、必要に応じて弁輪拡大を行う手術が必要です。また、心雑音が聞こえることから、心臓内部にも負荷がかかっている可能性があり、術中にさらに詳細な検査と服薬治療を行ったほうがいいと思っています」
秀臣は黙って木村の話を聞いていた。彼は無表情のままだ。カンファレンス室に座った時から、秀臣の手がぎゅっと握られていたので、それが緊張によるものなのか、検査結果を聞いたショックからなるものなのかは判別が出来なかった。
「手術はリスクもありますが、これを行わなければ桜さんの症状は悪化し、心不全や突然の命の危険に繋がる可能性があります。成功率は高く、多くの患者さんが無事に手術を終えています。もちろん、慎重に準備を進めていきます」
木村先生は資料から顔をあげて、秀臣に向けて穏やかに微笑みかけた。
「桜さんのこれからの人生を考え、私たちとしても最善を尽くしたいと考えています。もし何かご質問があれば、遠慮なくお尋ねください」
秀臣は一瞬、言葉を探すように木村を見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「…手術をすることで、桜の生活はどう変わるのでしょうか?」
「桜さんの体調は確実に改善され、日常生活も楽になるはずです。ただし、手術後も定期的な経過観察が必要ですし、今まで通り、適度な運動や生活習慣にも気をつけていただくことになります」
秀臣は木村の説明に耳を傾け続け、時折小さく頷くが、彼の表情は変わらなかった。医療の専門用語や複雑な手術の内容に戸惑いを隠せないでいるのか、または娘の命に関わる重さに、感情を表に出す余裕がないのかもしれない。
すると、父親はさきほどよりもぎゅっと眉間にしわをよせて、木村先生と颯太をにらみつけた。
「ここは防音ですか」
「…はい、防音です」
由芽が落ち着いた声で答えると、秀臣の目からポロポロと涙がこぼれた。ぽろっと数滴ではない、流れるように。
秀臣の涙が止めどなく流れ始め、彼は声を震わせながらうつむいた。しばらくの間、室内には彼の浅い呼吸と、微かな嗚咽だけが響いていた。誰も言葉を発せず、ただその場から動けなかった。
やがて、秀臣は深く息を吸い込むと、感情を抑えきれずに嗚咽を漏らしながら泣き始めた。肩を震わせ、両手で顔を覆いながら、彼は言葉を紡ぎ出した。
「私の心臓を…あの子にやってください…」
その言葉は、まるでその場にいた全員の心を締め付けるように響いた。その場にいた全員が言葉を失っていた。秀臣の目からあふれる涙と、その訴えがどれほどの重さを持つかを感じた瞬間だった。
「私の心臓を…あの子ばかり苦しい思いをさせて…なぜ自分は元気なんだ!!」
秀臣は泣きながら続けた。
秀臣の心からの叫び。桜から聞かされていた父親の冷たい印象とはまるで違う姿が、彼らの前にあった。桜が話していた「娘に興味がない父親」とはまったく異なる、深い愛情と罪悪感に押しつぶされそうな父親の姿。
颯太は何とか言葉を探し、秀臣に声をかけようとしたが、胸が詰まり、言葉が出てこなかった。桜のために何をすべきか、どう彼女を助けるべきか、医師としての責務が重くのしかかっていたが、目の前の父親の悲痛な訴えを前に、何も言えなかった。
木村先生も、由芽も同様に、秀臣の告白に何も言えず、ただその場にいた。彼らが見ているのは、娘を思い、その命の重さに耐えきれず崩れ落ちる一人の父親。
その時、その部屋にいたもう一人の人物…幽霊の真田先生が声をあげた。
「心臓を含めた体のことは我々にお任せください!お父さん、あなたにはあなたにしかできないことがあるでしょう。仕事よりも、病気よりも。桜さん自身を見て支えてあげられるのはお父さんだけなんですよ」
颯太は、真田先生の声を聞いて、はっとしてそちらの方を見た。そこには、真剣な表情で颯太を見つめる真田先生が立っていた。目が合った瞬間、真田先生は微かに頷き、颯太にその言葉を伝えるよう促すかのように見えた。
颯太は深呼吸をし、ゆっくりと口を開いた。
「鈴木さん…心臓や体の治療は、僕たちに任せてください。でも、お父さんには、お父さんにしかできない大切なことがあります。桜さんを支え、見守ることができるのは、お父さんだけなんです。今だけは仕事よりも…桜さんの傍にいてもらえませんか」
颯太の声は震えていたが、その言葉はしっかりと秀臣に届いたようだった。秀臣は驚いたように目を見開き、涙に濡れた顔で颯太を見つめた。しばらくの間、その場に静寂が訪れた。やがて、秀臣は何度も頷きながら、再び涙をこぼした。
「…そうですね…」
秀臣は声を震わせながら、何度も自分に言い聞かせるように頷き続けた。
「娘を…支える…」
秀臣の嗚咽は止まらず、彼の肩は震えていた。颯太も木村先生も、そして由芽も、桜が語っていた父親の冷たく感じた姿とはまったく違う、深い愛情を持った父親の姿に心を打たれていた。
秀臣は、桜のことを何よりも大切に思っていたのだ。その思いが、なぜか桜には伝わっていないが、こんなにも溢れ出ていた。