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第8話

病院から逃げるように飛び出して、どれくらいの時間がたっただろうか。

颯太のポケットに入っていたスマホの着信音で、颯太はようやく腕の間にうずめていた顔を出した。

スマホの画面には「母」と表示されている。


「…もしもし」


「あ、颯太?もう帰ってくる?母さん急遽、夜勤になったから。ごはん作ってくれるんだっけ?」


「…今夜は無理かな」


「そ。…ね、なんかあった?」


電話から聞こえる母親の穏やかな声に、颯太の目じりに思わず涙がたまった。


「いや」


震える声を悟られたくなくて、わざと短く返事をする。何歳になっても子供のようだと颯太の中の冷静な部分がつっこんだ。


「母さん…」


父さんは人殺しだったのかな。そんな言葉を飲み込む。母さんにとっても辛い記憶のはずだから。


「颯太。母さんね、父さんのこと今でも信じてる。精一杯やった結果だったんだって。だからあなたも、目の前の患者さんを精一杯治療しなさい。それがあなたに…あなたにしかできないことよ」


何も言っていないのに。母親は昔から自分の考えをよむことがあった。自分がわかりやすいだけなのかもしれないけど…。

母さんは父さんを信じてるんだ。それだけでも颯太の心はほっと息をすることができたのだ。


「うん…。夜勤頑張って」


「はーい」


いつもの調子で返事をして、電話を切る母の声を聞きながら、颯太はゆっくりと深呼吸をした。

今夜は真田先生を初めて病院から離れたところへ連れ出して、指導してもらおうと思っていたのに…。計画がダメになってしまった。


「あれ…?そういえば…真田先生…?」


病院から一緒に出てきたはずの真田先生の姿はなかった。颯太がいつまでもうじうじしているのを見かねて病院に帰ってしまったのかもしれない。

颯太は重い体をひきづりながら、帰路についた。


その頃、心臓外科医の医局のミーティング室では、鷹野先生と藤井先生が向かい合って座っていた。


「鷹野先生…お話とは…」


藤井が少し緊張した様子で切り出した。鷹野先生はいつも冷静で無駄がない。診察も、手術も。藤井が鷹野先生の指導を受けているからとはいえ、特別扱いはされたことはない。

そんな鷹野先生自ら話をするのは珍しい。ましてや、ミーティングルームに呼び出して話すなんて初めてだ。


「ああ。実は…君に折り入ってお願いしたいことがある」


鷹野の声は低く、いつもの口調とは少し違うようだ。


「お願いしたいこと…ですか?外来の田中さんのことでしょうか?それとも心不全術後の富田さんの…」


藤井は、日常業務の相談かと思い、いくつかの患者の名前を挙げた。しかし、鷹野は首を振り、少し間を置いてから口を開いた。


「いいや。神崎颯太のことだ」


その言葉に、藤井は眉をよせた。神崎颯太の名前が出るとは思ってもいなかった。やつは今年4月から入職してきた医者だ。年齢は同じだが、自分とはまったくタイプが違う。自分は鷹野先生に指導をうけ、奴は木村先生に指導をうけているため、あまり関わりはない。


そういえば、鷹野先生は、やつが入職してきてから、あからさまに冷遇している。しかし、こうして呼び出して話をする事態がおきたということだろうか?


「神崎…のことですか?何かあったんでしょうか」


藤井は信じられないという表情で問い返した。颯太は頼りなく、つかみどころのない奴だ。それに仕事への熱意ややる気も感じられない。しかし、特に問題を起こしたことはなかった。


「ああ、そうだ。神崎はこの病院…いや、心臓外科をめちゃくちゃにしようとしているようだ」


鷹野の声は低く…暗い。


「めちゃくちゃに…ですか?」


藤井は、何かの冗談か誤解ではないかと考えたが、鷹野の表情は真剣そのものだ。鷹野先生が冗談をいうはずもない。


「そうだ。君は、以前この病院で起きた手術ミスで亡くなった16歳の男の子の事件を知っているか?」


「はい。…あの事件はこの病院の歴史に残る大きな出来事です」


「ああ。その医者は、心臓外科医の神崎航太郎。神崎颯太の父親だ」


鷹野の言葉に、藤井は言葉を失った。


「まさか…」


「そうだ。そして、神崎航太郎はその事件のあと、自ら命を絶った」


藤井は静かに頷いた。あの事件は病院内でも大きな衝撃を与え、未だに語り継がれている。しかし、颯太がその神崎航太郎の息子だとは全く知らなかった。…思いつきもしなかった。


「それで…?」


藤井は困惑した表情で問いかけた。鷹野はゆっくりと藤井に向き直り、低い声で言った。


「彼が病院に復讐心を抱いているかもしれない。あの事件が原因で神崎航太郎は医師免許をはく奪され、神崎颯太は父親を失ったのだから。彼はこの病院を恨んでいるんだ。表向きは大人しく、誠実な医師として振る舞っているが、心の中では何を考えているか分からない」


「まさか…あんなに優柔不断でぼーっとしたやつが…」


藤井は、これまでの颯太の姿を思い浮かべ、そんなことがあり得るのかと疑念を抱いた。


「信じられないのは分かる。しかし、私は長年この病院で働いてきて、勘が働く。彼が何かおかしなことをするかもしれない。君には、彼を注意深く見張っていてほしい。何かおかしなことがあればなんでも知らせてほしい」


鷹野先生の視線は鋭く、藤井を逃さないように見つめていた。藤井は動揺を隠せなかったが、鷹野先生の言葉に頷いた。


「…分かりました。注意しておきます」


藤井はそう答えたが、心の中ではまだ混乱していた。颯太が本当にそんなことを考えているのか、それとも鷹野の思い過ごしなのか。今後、どのように彼に接すればよいのか悩みながら、藤井はミーティング室を後にした。


「…神崎颯太。今日の反応を見る限り…案外、もう少し追い詰めたらすぐに折れそうだ」


藤井の出て行ったミーティング室で一人、鷹野はぽつりと呟いた。

ミーティング室の端…。幽霊の真田龍之介がじっと鷹野先生をにらみつけていた。


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