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第6話

颯太が部屋を出ようと立ち上がったところで、桜がゆっくりと目を開けた。


「起こしちゃった?ごめんね」


と颯太が申し訳なさそうに言うと、桜は静かに首を振った。まっすぐ天井を見ながら、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。


「知ってると思うけど…私、生まれたときから母親がいないの。私を産んだときに死んじゃったんだって。小さいときから、いつも心にぽっかりと穴が開いている感じなんだよね。あの人…父親は仕事が忙しくて、一緒に遊んだ記憶もないし。出掛けたこともない。私の世話はほとんど祖父母がしてくれた。おじいちゃんは今70歳だけど超元気で、おばあちゃんは穏やかで優しくて。二人とも本当に心からたくさんの愛情を注いでくれた。だから、何も不満はないんだけど…」


桜の声は震えていた。ゆっくりゆっくり話し、ところどころで言葉を切り、深く息を吸った。一気に話すのはやはり息苦しいのだろう。


「でもね、小さいころの記憶はあまりないんだけど、小学校高学年くらいから、父親が私を避けているように感じるようになった。せっかく帰ってきても、私の顔をまっすぐ見ないんだ。心臓の検査のあとも、結果を聞いてこないし。私が母親に似てるから、私を見ると母の影を感じて…憎いんだと思う」


桜の声が少し震えた。ところどころ声をつまらせながら、彼女は手で目元を拭い、続けた。


「先月、学校をずる休みしているのがバレて、あの人と喧嘩をしたんだ。そのとき、私は思わず『私のことなんて興味ないくせに』って言っちゃった。そしたら、あの人…顔を真っ赤にして出て行ったの。否定するわけでもなく…怒るわけでもなく。あの反応を見て、確信したの。あの人にとって、私はどうでもいい存在なんだって」


颯太はじっと桜の話を聞いていた。しばらくの沈黙の後、ゆっくりと桜の手を握りしめた。酸素の影響か、寒いのか…桜の手は冷たく、震えていた。

話し疲れたのか、桜は次第に目を閉じていき、やがて穏やかな寝息を立て始めた。


颯太は桜の寝顔を見つめながら、自分が何も言えなかったことを悔しかった。彼女の心の痛みや孤独に対して、何もできなかった。

颯太も父親を自殺で亡くしている。桜とは事情が違うが、少しは気持ちがわかるのに。


しかし、なんと声をかけたらいいのかわからなかった。何を言っても表面上の共感になってしまう気がした。父親を亡くしたあの頃の、颯太のまわりの親戚や近所の人や友人やマスコミのように…。


無力感に苛まれながらも、颯太はその場を離れることができなかった。


ふと、ドアが静かに開き、木村先生がやってきた。颯太がやってきたときはまだ早朝だったが、いつの間にかいつもの出勤時間になっていたらしい。

木村先生は鈴木桜の容態を聞いて、すぐに駆けつけてきたようだ。


「神崎君、ありがとうございます。かなり早く出勤していたんだね。おかげで助かったよ…彼女の様子はどう?ぐっすり眠っているようだね」


木村先生が静かに尋ねた。颯太は低い声で答えた。


「少し落ち着いたようです。でも、いろいろと話して疲れてしまったみたいで、少し前に眠ってしまいました。実は…」


木村先生は桜の寝顔を見つめ、深く頷いた。その後、颯太は桜から聞いた話を木村先生に話した。父親との確執。桜の喪失感や虚無感のこと。そして自分が何も言ってあげられず悔しいことを。


「そうか…。彼女のことを気にかけてくれてありがとう。お父さんとの間にそんな確執があったなんて…ずっと主治医だったのに聞き取れず申し訳ない。神崎君。折入って相談したいことがあるんだ」


颯太は木村先生の言葉に戸惑いを感じながらも、黙って話を聞いた。


「桜さんの家庭環境と疾患の複雑さを考えると、彼女にはあらゆる面でケアが必要になると思う。そこで、神崎君にも主治医として彼女のフォローをお願いできないかな?もちろん、私も共同で主治医のままフォローしていくよ」


颯太は一瞬言葉を失った。自分が桜の主治医として責任を負うことの重さに耐えられるのだろうか?疾患の事、家族の事…自分なんかに何ができるのだろうか?


「あの…考えさせてください…」


颯太が絞り出すようにいうと、木村先生は穏やかな顔でほほえみ、頷いた。


「もちろん。急ぎではないから、しっかりと考えてくれたらいい。でも、桜さんには君のような医師が必要だと思う。さ、医局に戻って今日の準備をしよう」


颯太は小さい声で「はい…」と返事をして、再び桜の寝顔に目を向けた。彼女のために何ができるのか。桜を助けたいがその気持ちを覆い隠す様に黒い思いがたちこめるのを感じた。


その日、午前中の外来が終わり、颯太は循環器病棟へ向かった。今日も外来がかなり押してしまったので昼食の時間はとれないだろう。颯太は階段を駆け上った。

ナースステーションの横で木村先生が普段見かけない高齢の夫婦と話をしているのが目に入った。颯太は気になりながらも、そっとナースステーションに入った。すると、颯太が来たことに気が付いた木村先生に手招きをされて呼ばれた。


「神崎先生、ちょっといいかな」


木村先生のそばへいき、ご夫婦に会釈をする。


「こちらは鈴木桜さんのご家族のかたです。入院手続きと日用品を持ってきてくれたんだ」


木村先生は丁寧に紹介し、颯太も一礼した。


「初めまして、神崎颯太と申します。心臓外科の医者です。よろしくお願いします」


祖父母は深々と頭を下げた。桜が言っていた通り、祖父は眉間にしわを寄せて唇をぐっと引き結んだ、真面目そうな方だ。祖母は深く深くおじぎをした。


「孫がお世話になっております。どうぞよろしくお願いします」


祖母が言いながらまた頭を下げる。

木村先生は話を続けた。


「桜さんはこれから詳細な検査を行います。その結果次第では手術が必要になるかもしれません。病状の説明と、手術の同意書等はお父さんじゃなくていいんですか?」


木村先生が尋ねると、祖父母は顔を見合わせ、少し困った様子で答えた。


「桜の父は今アメリカに出張中でして…何かあれば私たちに電話をください」


「わかりました。また連絡を差し上げます」


祖父母は再び深く頭を下げ、感謝の意を伝えながら帰っていった。颯太と木村先生はその姿を複雑な心境で見送っていた。その時、緊急の電話が木村先生のポケットから鳴り響いた。


「わかりました。はい。すぐに行きます」


「神崎君、外来で緊急の患者さんがいるようだ。すぐに行かなくては。君は予定通り病棟の診察と検査等お願いね」


「わかりました」


木村先生はそう言って足早に去っていった。颯太は残されたナースステーションで、桜の病室に行くべきかどうか迷いながら、少しの間その場に立ち尽くしていた。


午前の記録を確認しつつ検査予約などをしていると、颯太の院内電話に内線が入った。

それは事務からの電話で、鈴木桜の父親からの電話だという。

ちょうど木村先生は緊急で外来に行っており、ここには颯太しかいない。颯太は覚悟を決め、急いで外線につなげた。


「はい、旭光総合病院、心臓外科医の神崎です」


「鈴木桜の父親ですが」


冷静で少し低い、緊張感のある声が受話器越しに聞こえた。


「ご連絡いただきありがとうございます。お父様、現在アメリカに出張中とのことですが…」


「ええ、そうです。実は予定が延びて、帰国は早くても3日後になりそうです」


颯太は桜の話を思い出し、胸の奥に複雑な思いが渦巻いた。


「そうですか…桜さんはまだ検査を控えていますが、現在の容態についてお伝えしましょうか?」


「いえ、結構です。桜のことはよろしくお願いします」


その言葉と共に、電話は無情にも切られてしまった。颯太は受話器を置き、しばらく呆然と立ち尽くした。桜の父親の冷淡な態度が頭から離れない。娘が入院しているというのに、容態を聞くことすらしないとは…。


「はぁ…」


桜の顔、父親の冷たい声。そして電話の切れた音が頭を支配する。

一人の患者、そして家族に深入りするのは医療関係者としてご法度だ。感情移入しそうな事例ならなおさらだ。


颯太はもやもやとした気持ちを紛らわす様にリハビリ室へ向かった。気分転換も兼ねて、石田悠斗君のリハビリの様子を見に行こうと思ったのだ。

リハビリ室に到着すると、そこでは悠斗君が理学療法士の坪田先生と一緒にリハビリをしていた。石田君は元気そうに見え、笑顔で一生懸命に取り組んでいる。


「神崎先生!」


石田君が颯太に気づき、嬉しそうに手を振った。颯太も微笑みながら近づいた。


「悠斗君。リハビリ、順調に進んでるみたいだね」


「うん!坪田先生が色々教えてくれるから、頑張ってるよ!」


颯太は石田君の元気な姿に少しほっとしながらも、頭の中には桜のことがちらついていた。石田君のリハビリを見守りながら、彼女のために何ができるのかを考え続けていた。


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