外来受診から、入院となった鈴木桜は循環器病棟へ入院となった。彼女には明日以降、検査の予約が入っている。木村先生が主導となり、詳細な検査を進める予定だ。颯太は外来での桜の様子を思い浮かべ、明日の朝に様子を見に行くことにした。
「真田先生、お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします」
颯太が医局から出て1階へおりるエレベーターに乗り、二人きりになったところで、真田先生の方を向き、頭を下げた。
以前、医局の更衣室で真田先生に挨拶をしたところを同じ心臓外科医の藤井先生に目撃されてしまったことがあった。
あれから藤井先生は明らかに颯太のことを不気味なものをみるような目でみている。…ような気がしている。
それからは、エレベーターの中や誰もいない場所を狙って挨拶をするようにしているのだ。
「ああ。今夜は例のローストポークを作るんだろう?感想教えろよ」
「はい。今度よかったらうちに…」
その時、エレベーターがとまったので、颯太は口をつぐんだ。
「あれ?颯太?」
「由芽」
エレベーターにのってきたのは由芽だ。
「今日もお疲れ様。鈴木さん、大変だったね。颯太が外来で見てたときだったんでしょう?今は落ち着いてるみたいだったけど…」
颯太は微笑みながら答えた。
「うん。明日からの検査がうまくいくといいけど。由芽もお疲れ様」
「ありがとう。颯太もう帰り?ねぇ、今日は一緒に帰らない?」
「もちろん。そういえば、今夜も僕が料理をする予定なんだけど、由芽も来る?」
由芽は嬉しそうに目を輝かせた。前回のカレーも嬉しかったようで、あれから何回もまた作らないのかと打診されていた。
「えっ!!もちろん行く!嬉しい!颯太の料理、楽しみだな」
1階につき、真田先生に挨拶をしようと振り返ったが、すでにそこに姿はなかった。真田先生は颯太につかまっていれば病院から抜け出せることがわかっているので、今度一緒に出掛けようと颯太は思い浮かべた。
2人は笑顔で一緒に病院を後にし、颯太の自宅へと向かった。由芽の実家は病院から遠いため、由芽は一人暮らしをしている。そこは颯太の自宅よりも少し先の方で、颯太の実家は中間地点に位置するため、来るのも苦ではないらしい。
自宅に帰ると、まだ母親は帰っていない。看護師をしている母。今夜は22時までの勤務なのだ。
「母さんは遅くなるから、二人で先に夕食を作って食べよう」
「了解!何か手伝う?」
由芽は荷物を置き、手を洗うと、すぐにキッチンへ顔を出した。
颯太は昨日買っておいた豚肉ブロックを冷蔵庫から取り出した。今夜はこの塊肉でローストポークを作る予定だ。颯太は包丁を取り出すのかと思いきや、鞄の中からメスを取り出した。
「えっ、メス?!うそでしょ…」
由芽はぎょっとして目を見開いた。
「手術で使うやつだよね、それ?」
由芽の問いかけに、颯太はにっこりと笑って答えた。
「うん。これが一番使い慣れてるし、精密に作業できるんだよ。これもトレーニングになるし」
由芽はよほど驚いたようで、何も言わず、数歩さがり距離を置いたまま見守ることにした。
颯太は慎重に豚肉の塊をまな板に乗せ、メスを使って丁寧に筋膜を取り除き始めた。手つきはまるで手術を行うときのように正確で滑らかだ。
「まずは、表面の筋膜を切り取るよ。これがあると焼いたときに硬くなっちゃうからね」
颯太はそう説明しながら、メスを豚肉に滑らせた。
鋭い刃先が、薄い筋膜を丁寧に剥ぎ取っていく。メスの刃が筋膜を滑る音がしんと静まり返った自宅に微かに響く。
「すごい…本当に外科医みたい…あっ、颯太は外科医だったね」
由芽は半ば感心しながら呟いた。
「まだまだ心臓外科医を名乗れないくらいだけどね…」
颯太は手を止めずに答えた。
しばらくすると、豚肉の塊はすっかり筋膜が取り除かれ、滑らかな表面が現れた。颯太は満足そうに頷く。
「これで準備は完了。次は塩と胡椒をすり込んで、オーブンで焼くだけだ。野菜の仕込みもやっちゃおう」
「じゃあ、私も手伝う!」
とようやくほっとした笑顔になった由芽もキッチンに立った。
「じゃあ、ポトフも作ろうか。野菜を切ってくれる?」
颯太が言うと、由芽は張り切って「もちろん!」と頷く。普段あまり料理をしない由芽だが、料理は苦手ではない。
颯太はローストポークの下味をつけて、オーブンにいれたあと、縫合練習のセットを取り出した。
「…何してるの?もしかしてまた…?」
由芽が不思議そうに尋ねる。カレーをごちそうになった時と同じ光景だ。
「ちょっと縫合の練習をね。玉ねぎの皮を使ってやってみるんだ」
颯太はそう言いながら、玉ねぎの皮を取り出して丁寧に広げた。
「へ…へぇ、そっか」
由芽は興味津々だが、一歩引き気味で、野菜を切り始めた。
颯太は細心の注意を払いながら、玉ねぎの皮にメスを入れ、縫合の準備を進めた。彼の手つきは滑らかで、集中した表情はこれまでの顔つきとまるで違う。縫合針を持ち、糸を通すと、慎重に玉ねぎの皮を縫い始めた。
「縫合は、まず糸を通すところから。玉ねぎは皮が薄いから、力加減が大事なんだ。すぐにぽろぽろと割れてしまう…」
颯太は由芽に説明しながら、丁寧に縫い目を進めていく。何度も失敗しながらも玉ねぎの皮がしっかりと縫い合わさっていく様子に、由芽は感心しながら野菜を切り続けた。
「すごいね、颯太。こんなに器用に縫えるなんて…」
由芽は感心しながら言った。
「ありがとう。俺なんか…まだまだだよ」
颯太は恥ずかしそうに微笑んだ。真田先生とともに、真田先生の実際の手術の映像を見ているので、真田先生がどれほど正確に素早く縫合できるかを知っている。颯太は足元にも及ばない。
ポトフの具材が準備できると、颯太は鍋に野菜と肉を入れて煮込み始めた。
やがて、キッチンにはポトフとローストポークの香ばしい香りが広がった。二人はテーブルにポトフとローストポークを並べ、焼きたてのパンも添えて食事の準備を整えた。
「母さんはまだ帰らないから、食べよう」
颯太が言うと、由芽は嬉しそうに席についた。
ローストポークを切り分けて口に運ぶと、由芽の目が大きく見開かれた。
「これ、すごく柔らかい!口当たりがいいし、すごくジューシーで美味しい!えっ…なんで…えっ…」
由芽の反応に、颯太は嬉しそうに微笑んだ。
「本当?よかった。頑張って作った甲斐があったよ」
由芽は本当に感動した様子だ。
「こんなに美味しいローストポーク、初めて食べたよ。メスで丁寧に筋膜をとったからかな…すごい…」
颯太は少し恥ずかしそうに笑いながらも、その言葉に微笑んだ。
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ。このやり方は真…」
真田先生に教えてもらったといいかけて、颯太はとまった。幽霊の真田先生に教えてもらったなんて由芽は信じるわけがないだろう。
「さな?」
「さ…サイトでみたんだ!」
「ああ、レシピサイト?そうなんだー!私もまた料理作るようにしよっと!」
うまく誤魔化せたとほっと息をはいて、食事をつづけた。二人は和やかな雰囲気の中で食事を楽しみ、笑い声が絶えなかった。ポトフとローストポーク、そして焼きたてのパンが並ぶ食卓。
その後、遅くなって帰ってきた颯太の母親は、二人の手料理を見て目を潤ませた。メスで調理したことを話すと、呆れていたものの、ローストポークを食べると、すぐに由芽と同じように感動していた。
由芽も帰り、颯太も自分のベッドで横になり目を閉じる。
今日の桜のことが頭に浮かぶ。父親とうまくいっていないのか…。どうやってサポートすればいいのか…。木村先生が主治医だから、見守ろう…そう思いながら、颯太は深い眠りに落ちて行った。