心室中隔欠損症の開胸手術後に重度の不整脈を発症し、ペースメーカーの植え込み術を行った7歳の石田悠斗君の経過をみるため、颯太は循環器病棟を歩いていた。
横では真田先生が午前中の外来の患者さんについて「あの人は次回検査を勧めるべきだ」「血液検査の結果が…」と語っているが、颯太はまったく返事をせずに耳だけかたむけていた。
「おい、颯太。聞いてるのか?」
「聞いてますよ。でも幽霊の真田先生の姿は他の人に見えないんですから、返事をしたら僕の独り言みたいになるじゃないですか」
「んー…ああ、そうか…たしかに…でもな?!」
「颯太?」
廊下の端、スタッフがいない隙を見計らって真田先生と会話をしていると、ふいに後ろから話しかけられた。
振り返ると、そこには幼馴染の看護師、霧島由芽が立っていた。
「なんか、ひとりごと言ってなかった?」
と疑わしげに首をかしげている。
「え、いや、ちょっと考え事してただけだよ。ほら、口に出すと頭が整理しやすいっていうだろ?」
颯太は慌てて取り繕ったものの、由芽は眉間に皺を寄せて怪しそうに颯太をみていた。
「あの…ほら、石田悠斗君の経過について考えてたんだ」
「本当?なんか怪しいなぁ…」
由芽は半信半疑のまま、颯太を見つめた。話題を変えなくては…颯太は笑顔で答えた。
「ほんとだって。ほら、誰もいないだろ?ところで、今から悠斗君の診察に行くんだ。病室まで一緒に行かないか?」
由芽は少し疑わしげな表情をしながらも、頷いた。
「ふーん、…まぁ、いっか。悠斗君の病室まで一緒に行こ」
二人は一緒に悠斗君の病室へ向かって歩き出した。颯太は心の中で真田先生に静かにしてもらうよう願いつつ、由芽に話しかけた。
「悠斗君の経過はどう?」
「順調だよ」
由芽は微笑みながら答えた。
「不整脈もなく、他の症状もないみたい。食事もちゃんと取れているし」
「そっか。良かった…」
颯太も安堵の表情を浮かべた。
「でも、まだ肩をあげるのには制限があるんだろう?」
由芽は頷いた。
「そう。ペースメーカーの線が馴染むまでは無理をさせられないわ。でも、歩く練習のリハビリは頑張ってるよ」
「そっか。えらいな…石田君の根性と回復力には驚かされるよ」
「うん、彼は本当に強い子だわ」
由芽も笑顔で頷いた。石田君はペースメーカーの術後、翌日までは痛み止めを希望していたものの、それからは痛みを訴えることもほとんどない。リハビリのあとも体がきつい中でも、看護師がいくと笑顔で受け答えをする。7歳とは思えない根性だ。
「でも、油断は禁物。しっかりと見守っていかないと」
二人は石田悠斗君の病室に到着し、中に入ると、元気そうな悠斗君がベッドに座り、笑顔を浮かべていた。
ベッドサイドには、理学療法士である坪田正樹先生がいて、心音を聴診しているようだ。
「先生!」
石田君がぱっと振り返り颯太を見て手を振った。
「こんにちは、悠斗君」
颯太は笑顔で手を振って応え、ベッドに近づいた。
「坪田先生、お疲れ様です。石田君の調子はどうですか?」
坪田先生が聴診器を外し、頷きながら言った。
「順調ですよ、神崎先生。心音も安定していますし、不整脈も見られません。リハビリも低負荷かから少しずつ進めています」
「そうですか。ありがとうございます」
颯太は頭を下げた。そして、悠斗君をふりむくと、誇らしげな、自慢げな顔でにこにこと微笑んでいる。
「よく頑張ってるね悠斗君。無理はしないで、少しずつ頑張っていこうね」
「はい、先生!」
石田君はキラキラした目で、やる気に満ち溢れた笑顔で答えた。しっかりしているように見えるが、彼はまだ7歳だ。ほめられるのが何よりのご褒美だろう。
坪田先生は微笑みながら、石田君の手を握った。
「石田君。お疲れ様でした。また明日同じ時間に来ます」
「坪田先生、ありがとうございました」
悠斗君も笑顔で手を握り返した。リハビリの最後はいつもこうして力をこめた握手をしているらしい。
「神崎先生、霧島さん、それでは、私はこれで失礼します。何かあればすぐに呼んでください」
坪田先生はそう言い、頭を下げると病室を後にした。
颯太は由芽と共に悠斗君のそばに座り、聴診器を取り出した。
「じゃあ、次は僕が聴診するね。軽く呼吸をして、らくにしてね」
悠斗君は頷いてベッドに寝転ぶと、服をまくり胸を見せた。悠斗君の傷跡は胸の中心に10㎝ほど残っている。そして左胸にはペースメーカーが入っているが、どちらも痛みはおさまっているようだ。
颯太は慎重に聴診器を当て、心音を確認した。石田君の心臓は規則的に鼓動を打ち、異常は見られない。
「うん、心音はとてもいい感じだ。順調に回復してるね」
「本当ですか?やった!」
悠斗君は嬉しそうに聞いた。颯太は笑顔で頷いた。
「でも、無理はしないでね。リハビリも少しずつ進めていこう。リハビリの先生にしたがって。やりすぎもよくないからね」
「やりすぎもよくないの?」
「そうだよ。気持ちに体がついていかなくて、体が逆に悪くなっちゃうことがあるんだ。だからゆっくりね」
「うん。わかった」
由芽が優しく声をかけた。
「悠斗君、あと1時間くらいしたら心電図をつけるから、お部屋でゆっくりしててね。」
「はい、わかりました」
悠斗君は素直に頷いた。颯太と由芽は微笑み合いながら、病室をあとにした。廊下に出ると、颯太は深呼吸し、安心した表情を浮かべた。
「本当に順調で良かった」
颯太は由芽に向かって言った。
「また、何かあったら院内ピッチに電話して。今日は今から外来にいるから」
「うん。わかった」
颯太は由芽に手を振りながら、非常階段の扉をくぐり1階の外来へと足をすすめた。