タッタッタッタッタッ
アスファルトを蹴る規則的な足音が静かな住宅街に響く。早朝の生暖かい空気が肺に染み渡る。7月よりも朝の気温が若干冷たい気がするものの、まだまだ夏の気温だ。
真田先生からの課題である毎朝のランニングは、心と体を鍛えるための重要な時間になっている。ランニングをしていると、不思議なことに思考が整理され心も落ち着く。
「もう少し、頑張れ……」と自分に言い聞かせながら、呼吸が荒くならないよう、一定のリズムを意識して走る。
赤色の朝日が街を照らし始め、影が長く伸びる。見慣れた街の景色が朝の光に包まれて、街が少しずつ目覚めていく様子が心地よい。
住宅街の角を曲がると、向こうから犬を連れたおばあさんが歩いてくるのが見えた。いつも同じ時間にすれ違うおばあさんだ。
「おはようございます」
颯太は軽く頭をさげて声をかけた。
「あら、おはよう、颯太くん。今日も早いわね」
おばあさんはにこやかに手を振って挨拶をし、愛犬も尻尾を振っている。
「こんなに毎朝走るなんて、本当に偉いわね」
「ありがとうございます。頑張ります。じゃあ、また」
颯太は笑顔で答えて会釈し通り過ぎ再び走り始めた。しばらく走ると、今度は新聞配達の少年とすれ違った。
「おはよう、颯太さん!」
少年は元気に手を振った。
「おはよう、良い朝だね!」
颯太も手を振り返しながら答えた。少年の無邪気な笑顔に元気をもらい、颯太はさらにペースを上げた。
颯太は雨の日もランニングをしているが、彼も同じく雨の日も新聞配達を欠かさない働き者だ。彼の働く姿に颯太もやる気をもらっている。
旭光総合病院の看板が見え始めたところで、道路脇のブロック塀にもたれかかっている少女と目が合った。
「おはようございます。どうしましたか?」
颯太は足を止め、声をかけた。
この時間に会う人たちは大体決まって同じだが、この少女を初めて見かけた。
少女は颯太の声に反応し顔を上げて、微笑んだ。
「…おはようございます。ちょっと…休んでただけです。大丈夫です」
彼女の顔色は悪く、唇には軽いチアノーゼが見られる。
颯太はそれに気づきながらも、彼女の言葉に合わせて微笑んだ。
「…そうですか。でも、無理はしないでくださいね」
「…ありがとうございます。お医者さん…ですか?」
少女は颯太を見上げて尋ねた。
「はい、心臓外科医です。この旭光総合病院で働いています。」
颯太は答えた。
「僕は神崎颯太と言います。君は?」
「鈴木…桜です。心臓がちょっと弱くて、定期的にこの病院に通ってるんです。神崎先生か…初めて聞く名前…。もしかして新しい先生ですか?」
桜は明るく言った。「鈴木桜」という名前は初めて聞く名前だ。もちろん診察もしたことがないし、カルテも見たことがない。定期的にということは1年に1回…または半年に1回の受診なのかもしれない。
「はい。まだ3ヵ月ほどです。…顔色が良くないように見えますが、大丈夫ですか?」
桜はほんの一瞬顔をしかめて、少しうつむき、下を向いた。顔が陰になり、顔色が一層悪くうつる。
数秒の沈黙の後、パッと顔をあげた時は、また笑顔になっていた。
「本当に大丈夫です。ただ、少し疲れただけですから」
桜は軽く首を振って笑った。
「また、定期検診の時にみてもらいます」
颯太は桜の言葉に、それ以上何も言えないでいた。
「わかりました。無理をせず、いつでも受診してください」
「はい。…では、これで失礼します」
桜は軽くお辞儀をして、颯太と病院に背を向けて、駅の方へ歩き出した。
しばらく見ていると、2~3mごとに立ち止まり、ブロック塀にもたれかかっっているし、胸をおさえる様子もある。颯太の方を数回振り向きながら頭を下げまた歩き出すというのを繰り返し、彼女は見えなくなってしまった。
颯太はその背中を見送っていた。
まだ医療現場の経験は少ないが、心臓外科医として桜の症状が気になる。彼女の様子を見るかぎり、かなり苦しいだろう。
それに、病院の前まで来たのに、受診せず帰るなんて。
何か事情があるのか…?病院に行ったら、カルテを確認し、木村先生に相談しよう。
颯太はスピードをあげて病院へと向かった。
まだ早朝だったので、人のいない医局につき、まっさきにパソコンを立ち上げる。患者名の欄に「鈴木桜」と入力し検索すると電子カルテが表示された。
「ファロー四徴症…」
颯太は画面に表示された診断名を読み上げた。
その時、背後に気配を感じた。振り返ると、そこには日本でも屈指の天才心臓外科医であり、先日の飛行機事故で命を亡くしてしたあと、幽霊になった真田先生が立っていた。
幽霊の真田先生が突然現れるときは、毎回驚いていた颯太だったが、今は真田先生の現れる気配もなんとなくわかるようになり、だいぶ驚くことも少なくなった。
「おはよう、颯太。早いな」
真田先生は微笑んだ。
「おはようございます、真田先生」
颯太は真田先生の方をふりむき頭をさげた。
「実は先ほどランニング中に鈴木桜さんという少女に会いました。顔色が悪く、チアノーゼも見られたので気になってカルテを確認していたところです」
「鈴木桜か…。俺も診察したことがある患者だな」
真田先生はしばし思い出すように目を細めた。
「確か、生後間もなくチアノーゼと心雑音が聞こえたために検査を行い、ファロー四徴症と診断された。心室中隔欠損の手術だけを行って、肺動脈の狭窄が軽度だったことで経過観察となっていた患者だったはずだ」
「そうなんですね。カルテによると、彼女の家庭環境は…」
颯太が続けると、真田先生はうなずいた。
「桜の母親は出産と同時に亡くなり、それ以来父親と二人暮らしだ。父親は忙しい仕事をしていて、診察も小学生の頃から一人で来ていたな」
「そうですか…」
彼女の頑なな態度は、症状を知られて父親に心配させないためなのだろうか。颯太も母と2人家族だ。彼女の気持ちは痛いほどわかる。しかし…
「チアノーゼと疲れやすさ…顔色の悪さすべて気になります。どうしたら…」
真田先生は少しの間黙った後、口を開いた。
「彼女の次の予約はいつなんだ?まずは診察、検査をしてみないと判断できないな…。倒れていなければいいんだが…」
「はい…。次の予約は…」
「神崎君、おはようー。あれ?鈴木桜ちゃんのカルテかな?」
「うわっ!」
その時、木村先生の声が聞こえて、颯太は慌てて立ち上がった。真田先生と話をしていて木村先生がやってきたことに気がつかなかったのだ。幽霊の真田先生が現れた時よりもずっと驚いてしまった。
「お、おはようございます、木村先生」
颯太は軽く頭を下げた。颯太の驚き様に木村先生は腹を抱えて笑っている。そしてその後ろで真田先生も爆笑している。
「す…すいません…。あの、実は、今朝ランニング中に鈴木桜さんという少女に会いまして、彼女の顔色が悪く、チアノーゼも見られたので気になってカルテを確認していました。定期的に受診していると本人が言っていたので…」
木村先生は頷きながら、笑いすぎて出た涙をふきながら、柔らかい口調で続けた。
「そうなんだ。桜ちゃんのことはよく知ってるよ。彼女は小さい頃からここに通っている患者さんだからね。2年前から僕が担当だよ」
「木村先生が主治医だったんですね…次の予約は来週になっているんですが、症状が気になるので、早めに診察を受けてもらえないかと思って…」
颯太は言った。
「たしかに。立ち止まっている状態でもチアノーゼと息切れ、2~3mしか歩けない様子を見ると深刻だね。早めに受診してもらえないか、本人の携帯電話にかけてみよう」
木村先生は優しく微笑んだ。
「僕が説得してみるよ。僕も心配だからね…」
木村先生はすぐに桜の連絡先を検索し、電話をかけた。しばらくの呼び出し音の後、桜の声が聞こえた。
「もしもし、鈴木です」
「おはよう、桜ちゃん。旭光総合病院の木村だよ。今朝、神崎先生が君のことを見かけて、少し心配しているんだ。顔色が悪かったと聞いたけど、体調はどうかな?」
「えっ…」
電話先の桜は息を飲むように黙った。そして、今朝、心配する颯太を誤魔化した時と同じような声で話した。
「おはようございます、木村先生。少し疲れていただけで、大丈夫です。神崎先生にもそう伝えてください」
「そうか。でも、念のために早めに診察を受けたほうがいいと思うんだ。念のためにね。君が倒れたらお父さんも心配すると思うから。どうかな、今日か明日、病院に来られる時間はあるかな?」
桜は少し考えた後、答えた。
「はい、わかりました。今日の午後なら大丈夫です」
「ありがとう、桜ちゃん。それじゃあ、午後に待ってるよ。無理をせず、気をつけて来てね」
木村先生は優しく言いながら電話を切った。
「木村先生、ありがとうございます。さすがです…本当は今朝僕が異変を感じたときに説得すべきだったのに…」
「いやいや、君が気が付かなかったら来週まで僕も知らないところだったよ。ありがとう」
木村先生は微笑んだ。
「午後に桜ちゃんが来るから、一緒に診察しよう。今日の午後は病棟診察の予定だったね。石田君の診察が終わったら外来に来てくれる?」
「わかりました。ありがとうございます」
颯太が頷くのを見て、木村先生も笑顔になった。