「あら、颯太もう出るの?」
いつもの出勤よりも30分ほど早く出掛けようとしている颯太に、母が慌ててお弁当を差し出した。
「うん、今日からランニングをすることにしたんだ。早く出ないと間に合わないから」
颯太は笑顔で答え、母親の手からお弁当を受け取った。
「そう。気を付けてね。無理しないで」
「大丈夫、ありがとう。行ってきます。あっ、今日は俺が料理するから」
「そう、わかっ…えっ?!」
「いってきまーす」
「ちょっ、颯太?ねぇ!颯…」
母の戸惑う声を聞き流し、ドアを容赦なくしめた。ついでに鍵もしっかりと締めた。
颯太はふっと笑いながら玄関を出て、軽くストレッチを始めた。
体をほぐしながら、朝のひんやりとした空気を深呼吸で体に取り込む。今日は快晴なのだろう。空気が軽い。ランニングシューズをしっかりと結び直し、準備が整ったところでゆっくりと走り始めた。
早朝の街は静かで、颯太の足音だけが響く。颯太は軽快なリズムで足を運びながら、頭の中で今日の予定を整理していた。石田君の様子を確認してから、傷の処置をして…バイタルを…
(走りながら、頭もスッキリさせよう)
思考を巡らせながら、呼吸を整えペースを上げた。公園の脇を通り抜け、川沿いの道を走る。朝日がしっかりと昇り始め、空が淡いピンク色に染まっていく。
(こんなに綺麗な空、ランニングしなければ見ることはなかったな)
走ることで頭が冴え、昨日の悪夢の記憶も次第に薄れていくのを感じた。病院が見えてくると、颯太は少しずつスピードを落とし、クールダウンを始めた。汗でシャツが濡れているが、心地よい。
病院の玄関にたどり着いた時、太陽はすっかりいつもの出勤のときの位置に来ていた。思ったよりも疲れを感じない距離だ。
(よし、今日も頑張ろう)
颯太は自分にそう言い聞かせ、病院の中へと足を踏み入れた。
「神崎先生!」
医局での申し送りとカルテチェックを終わらせて、循環器病棟へ降りると、循環器科の看護師で、高校・大学の同級生でもあった、霧島由芽が話しかけてきた。
「おはよう。早いね。夜勤明け?」
「おはよう、颯太先生。夜勤明けだけど、石田悠斗君の様子を見てから帰ろうと思って」
由芽は少し疲れた顔をしながらも、颯太に笑顔を見せた。
「そうか。昨夜、術後の石田君の様子はどうだった?」
「手術が終わった後、麻酔が切れて起きてから痛みで少し苦しかったようね。でも、痛み止めを投与したら落ち着いて、朝までぐっすり寝ていたみたい。今は心電図の異常もないし、経過は順調よ」
颯太は安心した表情で頷いた。
「そうか、よかった。心配してたんだ」
「ここに就職してから初めての執刀だったんでしょう?無事に終わってよかったわね。おめでとう。悠斗君のお母さんも安心しているみたい。彼が起きたら、また痛み止めを調整してあげるつもりだから、心配しないで」
「ありがとう、由芽。みんなのおかげだよ」
颯太は由芽に微笑んだ。
「神崎先生が頑張って手術してくれたおかげよ。私たち看護師も精一杯サポートするから、これからも一緒に悠斗君の退院まで頑張ろうね!」
由芽は拳を握りながら、力強く宣言した。
「うん、ありがとう。これからもよろしく頼むよ」
颯太は由芽に軽く頭を下げ、石田君の病室へ向かった。病室の中は静かで、石田君は穏やかな表情で眠っていた。
まだ外来開始まで時間がある。石田君の隣に腰掛け、そっと手を握った。
あたたかい。
心電図も異常は見られないし、脈拍、血圧も安定している。
颯太は首にかけていた聴診器を取り出し、石田君の胸に当て目を閉じた。
(…うん。いい感じだ)
手術前よりも雑音もない安定した鼓動。
「せんせ?」
その時、聴診器を通じて、石田君の声が聞こえ、颯太は目を開けた。
「おはよう、悠斗君。どう、具合は?」
「ちょっと…いたい…」
石田君は少し顔をしかめ、苦しそうに答えた。颯太は優しく頷き、すぐにナースコールを押した。すぐに由芽が駆けつけてきた。
「痛みがあるみたいです。痛み止めをお願いします」
「わかりました。すぐに用意しますね」
由芽は迅速に痛み止めを準備し、石田君に投与した。数分後、石田君の表情が少し和らぎ、呼吸も楽になったようだった。
「痛み止めが効いてきたかな?どう?少し楽になった?」
「まだわかんない」
石田君は酸素マスクの中で、かすかに微笑み、颯太を見上げた。颯太も微笑み返し、石田君の頭を軽く撫でた。
「すぐに効いてくるからね。痛いときはすぐに言って。手術は予定通り終わったよ。悠斗君のおかげで僕も頑張れた。ありがとう」
「ほんと?ぼく、がんばったんだ…先生、ありがとう」
「うん、本当に頑張ったよ。悠斗君はすごく勇敢だったね」
石田君は嬉しそうに頷きながら、手術の傷口に服の上から手をあてた。
「ここが、手術の傷?」
「そうだよ。ここから君の心臓はもっと元気になる。今は少し痛いかもしれないけど、すぐによくなるからね」
石田君は傷口のあたりにそっと触れながら、頷いた。
「ありがとう、先生。ぼく、もっと元気になるから」
「もちろんだ。これからもっと元気になって、いろんなことができるようになるよ」
由芽が優しく微笑みながら、石田君に声をかけた。
「そうね、石田君はこれからどんどんよくなるわよ。退院まで、私たちと一緒に頑張ろうね」
石田君は再び微笑み、小さく頷いた。
「先生、また外来で診察してから、午後に来るから、我慢せずに看護師さんに言ってね」
颯太と由芽は、悠斗君とお母さんに挨拶をし、病室を出た。