「神崎君!」
手術室に木村先生の悲鳴にも似た声が響いた。
周りのスタッフが息を飲む気配がして、颯太は思わず周囲を見渡した。
手術室には、颯太と木村先生、そして後方にはこちらを睨むように見ている鷹野先生と藤井先生が腕を組んで立っていた。
「ほら見ろ!こいつには無理だと言っただろう!いつか人を殺してしまうとわかっていた!」
鷹野先生が声を張り上げ、颯太に向かって指を指す。
「人を…ころ…」
颯太は自分の喉が何かに押さえつけられているかのようにうまく声が出せず、ようやく絞り出す。喉は強い力で押さえつけられているようで、声も出ないし、呼吸も苦しい。
(人を殺すなんて、鷹野先生は何を言っているんだろう)
颯太は理由がわからず、ぼうっとその様子を見ていると、突然手術室に機械音が鳴り響く。
ピー――――――――
颯太が慌ててモニターを見ると、そこには波形のない心電図が流れていた。心停止だ。
「えっ…えっ…」
「どけ!!」
鷹野先生が駆け寄り、颯太を勢いよく突き飛ばした。突き飛ばされた颯太は手術室の入り口まで派手に転がってしまった。相変わらず声は出ないし、手術室に鳴り響く機械音で、全員がパニックになっている中、颯太はまさに今、命のともしびを消そうとしている患者の顔を見た。
「かあさん…?」
そこに横たわるのは、颯太の母、美千代だった。
「かあ…!げほっげほっぐはっ」
大声を張り上げようとしたが、喉は相変らずなぜか発することが出来ない。鷹野先生に突き飛ばされた場所から体が動かない。そこから、精一杯母に右手を伸ばした。 その右手は…伸ばした颯太の右手はべったりと真っ赤な血で染まっていた。
「うわぁーーーーーー!!!!」
颯太の悲鳴が手術室にこだました。
鷹野先生は電気ショック装置を手に取り、母の胸に当てている。周囲のスタッフも慌ただしく動き回り、誰も颯太に目を向けない。心電図の波形は依然として動かない。母の顔みるみる青白く、動かなくなっている。
「どうして…どうして…こんな…」
颯太は混乱と恐怖で頭が真っ白になり、足が震え、その場に崩れ落ちた。目の前の光景がスローモーションのように流れる。
今、目の前で自分の母親が、命を失おうとしている。
「出血がひどい!アドレナリン、早く!」
木村先生の指示が飛ぶ。
鷹野先生は無表情のまま、何度もショックを与えている。しかし、心電図は反応しない。
「なんで…なんでかぁさんが…」
颯太の心の中で絶望が膨らんでいく。手が震え、涙が止まらない。彼の目の前で、最愛の母が息を引き取ろうとしているのだ。
その時、木村先生が鷹野先生の肩を掴み、引き離した。
「もう十分だ、鷹野先生…」
鷹野先生は険しい顔をしたまま、電気ショック装置を手放した。そして、ギラっとした殺意のこもった目で、床から立ち上がれず崩れ落ちたままの颯太を見た。
「お前のせいだ、神崎。お前が未熟だから、こんなことになったんだ」
鷹野先生の冷酷な言葉が、颯太の心に突き刺さる。
「かあさん…ごめん…俺が未熟だから…」
颯太は手術室の床に崩れ落ち、真っ赤な血で染まった手を見つめながら、泣き叫んだ。
「人殺しの息子はやっぱり人殺しだな」
パニックを起こし泣き叫ぶ颯太に、鷹野先生が冷たく言い放った。
ヒト…ゴロシ…
人殺しの息子だから…
「うわぁぁぁぁぁ!!」
颯太は大粒の涙を流しながら目を覚まし、起き上がった。喉元を押さえていた分厚い本が、ごとりと重い音をたてて転がり落ちた。
着ていたTシャツは汗でぐっしょりと濡れ、夢から醒めたはずなのに、目からはまだ涙がこぼれて止まらない。
夢の中では母の血で染まっていた手。ゆっくりと開き、手をまじまじと見つめた。
「はぁ…夢…か」
颯太は自分に言い聞かせるように呟いた。息を整えようと深呼吸をするが、心臓はまだ激しく鼓動を打っている。夢の中の恐怖と絶望が、まだ頭と心に残っている。
枕元の携帯電話を灯すと、時刻は夜中の3時半。カーテンの外は真っ暗だ。
颯太はベッドに座り、深呼吸をした。まだ手は震えるし、脈が早い。
悪夢の残像が頭の中をぐるぐると回り、再び眠りに落ちることが怖くてたまらない。
冷たい汗が体を覆う感覚。まだ鮮明に目に浮かぶ、血の匂いと感触。手術室の床に突き飛ばされたあの痛み。そして…母親が手術台の上で心停止する光景が鮮明に蘇る。
「はぁ…」
昨日の手術が頭に浮かんだ。石田悠斗君、7歳の少年の
「何かあったらコールするので、いい加減、帰ってください」
と言われ、しぶしぶ帰宅したのだ。自宅に帰ると、ほっとしたせいか、入浴し食事もせずにベッドに倒れこんで寝てしまった。ここ一週間…とくにここ3日ほどはずっと緊張状態にあったので、ほっとしたのだろう。
(悠斗君の手術は問題なかった…うん…大丈夫)
色々と頭に浮かんでくる状態のままでは、寝付けそうにない。颯太はベッドから立ち上がり、部屋の中をゆっくりと歩いた。心を落ち着けるために、深呼吸を繰り返す。そして、部屋の隅に置かれた使い慣れた小さなデスクに向かい、ノートを取り出した。
(悠斗君の手術はたまたまうまくいっただけだ。これも木村先生と真田先生がいたから慌てずにできただけだ。今回のことを記録しとかないと…)
颯太はペンを握りしめながら、石田君の検査結果や手術のこと、手術中の様子などを記録した。
(さっきのは夢だ。夢…。悠斗君の手術は無事に予定通りできたんだ。大丈夫)
ノートに書き込むことで、少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。
一通りまとめ終わって、また昨日のことを振り返る。真田先生から「弟子にしてやる」といわれたこと。
そう。そんな真田先生から言われたこと。
毎日のランニングと縫合練習。あと、心音と肺音の音を聞き続ける。
(天才心臓外科医の真田先生に教えてもらうなんて、あり得ないことだ。こんな僕に技術を伝授してくれる。しかも、真田先生はもう亡くなっているのだから…でも…僕なんかにできるのだろうか)
真田先生は気さくで話しやすい。天才心臓外科医でたくさんの患者さんを救ってきた。気取った感じも威張っている感じもない人柄も素晴らしい人だ。あんな人が自分なんかに教えてくれるというのだ。
(やるしかないよな…。目の前の患者さんを救うためにも)
不安な気持ちを無理矢理振り切った。
まだ出勤まで時間はありそうだ。でも、寝たくはない。ベッドに戻るのではなく、勉強に切り替えることにした。
デスクに積み上げられた医学書やノートを手に取り、颯太は集中して読み始めた。初心に戻り、心臓の解剖学から復習し、生理学、運動学…続いて手術の手順や注意点を確認する。
「真田先生が教えてくれたことを一つ一つしっかりと身につけられるように、せめて知識だけは入れておかないと…」
颯太は自分に言い聞かせながら、合間に心音と肺音の録音を聞く。外来で聴診をする際に、些細な異常も見落とさないようにしなければいけない。
録音された音を繰り返し聞きながら、異常音の特徴を頭に叩き込む。
次に、縫合の練習だ。鞄の中から縫合キットを取り出し、糸を手に取って慎重に針を通す。今までは時間のある時しかやってこなかった。
(毎日の努力が大事なんだ。自分にできることをしよう)
颯太は自分に言い聞かせながら、練習に集中した。
夜明けがすぐそこまできていた。