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第11話

颯太は石田君がICUに運ばれていくのを見送り、手術室の緊張感が一気に和らいだ。彼は深呼吸をしながら、自分の心臓の鼓動が徐々に落ち着いていくのを感じた。手術が成功したという実感がじわじわと広がり、ほっとした気持ちが胸を満たしていった。


「よかった…」


心の中でそっと呟きながら、颯太は周りの看護師たちに目を向けた。手術室ではスタッフたちが手際よく片付けを進めており、緊張感が和らいだ中でも、プロフェッショナルな動きが続いていた。彼らの姿を見て、颯太も何か手伝いたいという気持ちが湧き上がった。


「あの、何かすることはありませんか?」


颯太は一歩前に出て、看護師たちに声をかけた。すると、ベテランの手術室看護師である田中さんが驚いたように顔を上げ、眉を下げて困ったように微笑んだ。


「えっ?!神崎先生、ここは大丈夫ですので、記録とご家族に説明をしてくださいね」


田中さんの優しい声に、颯太は一瞬戸惑った。彼は手術室の片付けを手伝おうとする自分の行動が少し場違いだったことに気づき、少し恥ずかしくなった。


「そうか、たしかに…」


彼は頷きながら振り返ると、真田先生が額に手を当て、大きくため息をついているのが目に入った。真田先生の表情には、呆れと同時にどこか微笑ましいものが混じっていた。


「おい、颯太。君は何でも屋じゃないんだぞ」


真田先生の声が静かに響き、颯太は苦笑いを浮かべながら頷いた。彼の後ろでは、木村先生があははと笑っている。


「神崎君、手術が終わったら記録とご家族への説明が一番大事なんだよ。手術の結果をきちんと伝えることが、医師の重要な役割の一つだからね」


「わかりました。ご家族にきちんと説明します」


颯太は一礼し、手術室を後にした。廊下を歩きながら、手術の緊張感から解放された感覚が全身に広がっていく。きっとご家族も説明を不安な気持ちのまま待っているに違いない。石田君のご家族に手術の成功を伝えるという大きな責任が彼を待っている。


エレベーターに乗り込み、ICUのフロアに向かう。エレベーターの中で、石田君の手術の詳細や経過を頭の中で整理しながら、どう説明するかを考えた。ご家族にとって、この手術の成功がどれだけ重要であり、どれだけ待ち望んでいたかを理解しているからこそ、慎重に言葉を選びたいと思った。


エレベーターが止まり、ドアが開くと、ICUの前には石田君のご家族が心配そうな表情で待っていた。颯太は深呼吸を一つし、ご家族に近づいた。


「お待たせしました。石田君の手術は無事に終わりました」


その言葉に、ご家族の顔には安堵の色が広がった。

颯太は手術の経過を記録した写真を並べながら、石田君のご家族に説明をする。写真には手術の手順が順を追って詳細に写されており、石田君の状態がどう変化していったのかがよく分かるようになっていた。説明を聞くご両親の顔には、緊張と不安の色が見て取れた。


「こちらが手術前の心臓の状態です。この部分が心房中隔欠損症の穴になります」


颯太は指し示しながら、手術中に施した具体的な処置について丁寧に説明していった。ご両親は息を呑むように写真を見つめ、真剣に話に耳を傾けていた。


一方で、妹さんはすでに疲れ果ててしまったのか、母親の腕の中でぐっすり眠っている。その無邪気な寝顔が、張り詰めた空気を少し和らげたように感じられた。


「悠斗は…大丈夫なんですか?」


お父さんが不安げに問いかけた。その声には、息子を心配する親の切実な思いが込められている。颯太はその問いにしっかりと応えようと、言葉を選びながら話し始めた。


「手術自体は無事に予定通り終わりました。出血も少なく、問題なく進行しました。ただ、これからが大事です。合併症を起こさないようにしっかりとケアしていきます」


颯太は穏やかな声で話しながら、ご両親に安心感を与えようと努めた。木村先生が横から補足しながら続けた。


「落ち着いたらリハビリも始めます。悠斗君が元気に走り回れるようになるまで、一緒に頑張りましょう」


木村先生の穏やかで安心感のある励まし。それを聞いたご両親は、長い間抑えていた息をようやく吐き出すようにして、ほっとした表情を浮かべた。


「ありがとうございます、本当に…ありがとうございます」


お母さんは涙ぐみながら、感謝の言葉を繰り返した。お父さんも深く頭を下げ、その感謝の気持ちを伝えた。彼らの表情には、安心と希望が見え隠れしていた。

術後の説明が終わり、木村先生がご両親をICUに案内すると申し出た。颯太はその場に留まり、手術の詳細な記録を確認しながら、今後のケアについて頭を整理していた。ご両親がICUに向かう姿を見送りながら、颯太は改めて、無事に手術を終えたという安心感に息をついた。


ICUに入った石田君の様子を見守りつつ、颯太の心には、石田君の回復と、彼を支える家族の安堵した顔が鮮明に焼き付いていた。

しんと静まり返ったカンファレンス室。手術後の疲れがじわじわと押し寄せる中、颯太は深く、ゆっくりと息をはいた。これまでの緊張が解けた瞬間、全身の力が抜けた。


「おい」


その時、横から真田先生に声を掛けられた。気を抜いていただけにびくりと反応した。


「うわっ」


驚きの声を上げると、真田先生は、先ほどまで木村先生が座っていた席に腰かけ、足を組み腕を組んでいた。その姿勢はどこか王者のような風格を漂わせていた。


「あの、真田先生…今日はありがとうございました」


颯太は少し緊張しながら礼を言ったが、真田先生は真顔のまま反応しない。その沈黙が重く感じられ、颯太は少し戸惑った。


「お前…もっとうまくなりたいと思わないのか?」


低く、響くような声で真田が呟いた。その声には何か深い思いが込められているように感じられた。


「え?…僕なんかよりもすごい先生がたくさんいますから…あえてリスクをおかして僕が執刀する必要がないといいますか…」


颯太は困惑しながらも、自分の正直な気持ちを言葉にした。しかし、真田先生は冷静に、しかし強い言葉で遮った。


「そうじゃないだろう」


真田先生の声には鋭さと冷静さが混じっていた。その姿を見たのは初めてで、颯太は驚き、じっと固まって見つめた。


「お前が救わないといけない命がこれからたくさんあるはずだ。医者として、それに応える義務がある。たくさん救おうと思わなくてもいい。お前の目の前の命を助けられる力をつけろ」


その言葉は、颯太の心に深く響いた。難しい手術やたくさんの人を救おうと思わなくてもいいのだ。今日のように、目の前にいる自分を必要としてくれる命を救うことが大切なのだ。


「真田先生。僕、もっと力をつけたいです」


それまで真顔だった真田先生が、初めて表情を緩めた。その表情には、どこか誇らしげなものがあった。


「ああ。俺の最初で最後の弟子にしてやる」


いくら天才心臓外科医だとしても、幽霊に弟子入りするなんてどうかしている。しかし、目の前にあるチャンスを逃したくないという気持ちが湧き上がってきていた。


「よろしくお願いします」


颯太は立ち上がり、深々と頭を下げた。


「まずは毎日2キロのランニング。そして30分の筋トレ。そして縫合練習を欠かすな。電車移動中と寝る前は心音と肺音を聞き続けろ。まずはそこからだ」


真田先生の言葉に颯太は目を見開いた。その厳しさと具体的な指示に一瞬戸惑った。


「えっ…?」


「ちなみにだが、俺は毎日10キロのランニングと1時間の筋トレ、縫合練習は医者になってからこれまで欠かしたことがない。がんばろうな!」


颯太の第二の医者人生が始まった瞬間だった。真田先生の指導のもと、新たなステップに進む決意を固めた。目の前の命を救うために。


部屋を出ると、颯太の心には新たな希望と決意が満ちていた。これからの道は決して容易ではないが、真田先生の指導のもと、彼は一歩一歩前進していく。颯太の医者としての新たな挑戦が始まったのだ。

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