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第9話

「神崎!何してんだ!邪魔だから出ていけ!」


颯太はカルテや資料を急いでまとめ、まだ下を向いて目を閉じている真田先生をちらりと見やった。少し戸惑いながらも、「行きましょう」と小声でささやき、カンファレンスルームを出た。振り返ると、真田先生はまだその場に座ったままだったが、やはり鷹野先生や藤井先生には見えていないようだった。


「さな…」


と呟こうとしたその瞬間、別の声が耳に入った。


「神崎君、おはよう」


木村先生の声だった。振り返ると、木村先生がにこやかに立っていた。


「おはようございます」


颯太は軽く会釈をしながら答えた。


「午前はいつも通り外来だけど、午後は石田君のところへ行って、そのあとは手術の準備をしていいからね」


木村先生の言葉に、颯太は気持ちを引き締め直した。


「わかりました」


時計を確認すると、外来開始まで15分を切っていた。颯太は外来診察に時間を要することが多いため、事前にカルテを確認する必要がある。真田先生のことが一瞬頭をよぎったが、今は目の前の仕事に集中しなければならない。颯太は急いで医局に戻り、カルテを手に取り、一つ一つの患者情報を確認した。


しかし、手術の成功のためには冷静さを保つことが重要だと自分に言い聞かせた。さきほど真田先生に繰り返し言われたことだ。

外来の準備が整うと、颯太は診察室に向かった。受付にはすでに患者たちが集まり始めており、彼の到着を待っていた。颯太は深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせ、診察室のドアを開けた。


「おはようございます。今日はどうされましたか?」


颯太の声はまだ少し緊張していたが、患者に対する真摯な態度は変わらなかった。彼は一人一人の患者と向き合いながら、診察を進めていった。午前の外来診察が終わると、颯太はほっと一息つき、午後の予定を確認した。


翌日。いよいよ石田君の手術当日となった。


「失礼します」


颯太が石田君の病室に入ると、ベッドでむすっとした表情をしている悠斗君と、困ったように苦笑いするお母さん、まだ幼い妹を抱っこするお父さんの姿があった。お父さんが抱えている妹は大きな目がくりくりしており、悠斗君にそっくりだ。


「先生…おはようございます」


お父さんが深々と頭を下げ、それにつられて腕の中の妹もお父さんを真似して頭を下げた。その姿が微笑ましく、少しだけ緊張が和らいだ。

颯太はベッドのそばに近づき、悠斗君を覗き込んだ。手術のために腕には点滴が刺されており、胸には心電図モニターが装着されている。昨夜から酸素飽和度が低下していたため、鼻に酸素チューブが取り付けられている。悠斗君は目を伏せたままで、何も言わなかった。


「もう!手術いやだ!」


悠斗君が突然叫んだ。その強い声に部屋の中の空気がピリッと張り詰めた。


「え?」


「先生、この子、昨日の夜から絶食しているのを怒ってて…ここ数日、食事も息苦しくてできなかったのに、いざ食べられなくなるといやみたいで…」


お母さんが困ったように、ため息をつきながら話した。元々食事をとれないほど息苦しかったはずだ。食事記録にも、2-3割しか摂取できていないと報告がきていた。しかし、絶食となるとまた違うのかもしれない。それに、手術への不安がこの可愛いわがままにこめられているのだろう。


「悠斗君、手術が終わったら、また好きなものが食べられるよ。それに、食べるときの息苦しさも前よりなくなると思う」


颯太は優しく語りかけ、悠斗君の不安を少しでも和らげようと笑顔で話しかけた。石田君は少し眉間のしわを元に戻し、真剣な眼差しで颯太の顔をじっと見つめた。


「手術が終わってすぐは無理だけど、少しずつ体も動かせるようになるよ」


颯太は、石田君が少しでも希望を持てるように慎重に言葉を選びながら話し続けた。


「走れる?」


石田君の声には、期待と不安が入り混じった響きがあった。颯太はその質問に対し、力強く答えた。


「うん。走れるようになるように、先生も頑張るから」


石田君の表情が少しずつ緩み、尖らせていた唇がにこりと笑顔に変わった。颯太は彼の手を優しく握り返した。外来で最初に会った先月よりも、その手は痩せていて、握り返す力も弱くなっている。しかし、その細く、小さい手の温かさが、颯太の心に強い決意を与えた。


「わかった」


悠斗君の声は小さいが、その中には信頼と希望が込められている。颯太の胸の中に熱い思いが湧き上がった。この子を絶対に助けたい。彼の未来を守りたい。その思いが颯太の心を強く支え、決意をさらに固めた。


石田君とご家族に挨拶を終えた颯太は、次の診察のために外来へと向かった。今日も外来診療があり、気になる患者さんが数人待っている。早足で廊下を進む颯太の手には石田君の手の温もりが残っていた。


「ふーん、今日はいい顔してんじゃん」


突然、耳元で聞き覚えのある声がした。驚いて振り返ると、真田先生がにこやかに立っていた。


「真田先生…おはようございます」


颯太は一瞬驚きながらも、すぐに挨拶を返した。結局、昨日の外来では真田先生は姿を現さず、午後に木村先生の手術を見ている姿を遠目に見かけただけだった。そんな真田先生が今日は颯太と並んで歩き出した。もう、幽霊の真田先生にも慣れてきていた。


「颯太。絶対に悠斗君を助けような」


真田先生の声はいつになく真剣だった。颯太はその言葉に思わず立ち止まり、真田先生の顔をじっと見つめた。この人はどれだけの命を救ってきたのだろうか。悠然とした態度と自信に満ちた表情からは、その偉大な経験と技術がにじみ出ている。

もし真田先生が手術をするならば、今回の手術もなんなくこなせたに違いない。

しかし、今回の手術を担当するのは自分だ。自分が石田君を救わなければならない。


「はい」


深く頷き、決意の表れた声で応えた。真田先生の言葉が颯太の心に火をつけた。あの小さな手を守ってみせる。

颯太は再び歩き出し、外来診療へと向かった。真田先生の存在が彼の背中を押し、心の中で


「絶対に助ける」


という強い意志が膨れ上がった。どれだけのプレッシャーがかかろうとも、石田君を救うために全力を尽くす。それが医者としての自分の使命であり、父や真田先生への尊敬の証でもある。

診察室に向かう途中、颯太は深呼吸をし、心を落ち着けた。今日は特に大切な日だ。石田君だけでなく、自分が担当する患者一人一人に対しても、最善を尽くすことが重要だ。それが医者としての自分の責任であり、使命なのだ。

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