「はぁ…」
颯太はいつもより1時間も早い電車に乗り、病院までの道を歩いていた。母は早起きなどしたことがなかった颯太に心底驚いていたが、何も聞かず、おにぎりだけ急いで作って送り出してくれた。
朝の冷たい空気をまといながら、昨夜の出来事を思い出す。木村先生と一緒に医局に戻り、手術の準備や手順について深く話し合っていたため、一時的に真田先生のことをすっかり忘れていた。
その後、木村先生と共に駅まで向かい、それぞれの電車に乗って帰宅した。心は常に石田君の手術についての思考に囚われていた。家に帰り着いた頃には、真田先生との奇妙な遭遇がまるで遠い昔の出来事のように感じられた。
しかし、寝室に入り布団に潜り込んだ瞬間、真田先生の姿や会話が鮮明に蘇った。真田先生が幽霊として現れたこと…すべてが現実離れしていた。颯太はその記憶を思い出しながら、天井を見つめ、深い溜息をついた。
「あれは本当に真田先生だったのだろうか?」
彼は自問自答を繰り返した。幽霊という存在が実際にいるのか、そんなことが本当にあり得るのか。普段ならば否定するところだが、真田先生の存在はあまりにもリアルで、生々しかった。その姿、声、笑い声までもが鮮明に残っている。
「幽霊なんて…そんなアニメや漫画のようなことが現実に起きるはずがない…」
颯太は自分にそう言い聞かせた。しかし、もしあれが現実でないとすれば、何だったのだろうか。
「もしかして、石田君の手術が憂鬱なあまりに、自分で作り出した幻覚だったのかもしれない…」
石田君の命が自分の手にかかっているというプレッシャー、その重圧が自分を精神的に追い詰め、現実と幻想の境界を曖昧にしてしまったのかもしれない。しかし、たとえそれが幻覚であったとしても、真田先生の存在は確かに心に力を与えてくれるような気がした。
布団の中で何度もその考えを反芻しながら、颯太はいつの間にか眠りに落ちた。そして朝が来ると、心の中にわずかに残るその不安とともに、颯太は決意を新たに病院へ向かった。職員用入口から病院内に入ると、まだ廊下は薄暗く、夜勤や救急スタッフが忙しなく動いているだけだ。その静けさの中で、颯太の足音だけが響く。
ほんのり暗い廊下をすすみ、非常階段を上り医局に入る。
医局には当直のスタッフが数人いたが、まだ木村先生は到着していないようだ。
「おっ、今日は早いな~」
突然耳元で真田先生の声が聞こえ、颯太の全身に鳥肌が立った。
「ひっ!」
声が出ないほどの驚きに襲われると、思わずその場で立ち止まった。耳元で聞こえたあの声、まさかと思いながら恐る恐る振り返ると、そこには昨夜見たままの真田先生が立っていた。少し体の色が薄く透明感があるが、輪郭や表情は変わらず、そこにいることが信じられないほど存在神田。
「さ、真田先生…」
目の前の存在が本当に幽霊なのか、それとも自分の想像が作り出した幻なのか、颯太の頭の中は混乱していた。しかし、真田先生の笑顔はまるで昔の写真から抜け出してきたかのように自然で、幽霊だとは思えない雰囲気を持っていた。
「なんだよ、人をおばけかなんかを見るような顔して。あー、俺おばけだったわ!あははは!」
真田先生が大笑いするのを見て、颯太は内心でため息をついた。状況が状況なだけに笑うどころではないが、真田先生の無邪気な笑いに少しだけ気が緩んだ。
「笑うことじゃないんだよな…」
そう思いながらも、颯太は真田先生を無視することに決めた。真田先生がどれほどリアルに見えても、幽霊相手に時間を取られるわけにはいかない。颯太はそのままロッカーへ向かい、白衣を羽織った。白衣を着ることで気持ちが切り替わり、少しだけ冷静さを取り戻すことができた。
「さて、仕事だ…」
自分にそう言い聞かせるように呟き、石田君のカルテを手に取った。カンファレンスルームに向かうと、真田先生が後ろからついてくるのを感じた。颯太は深く息を吸い込み、気持ちを落ち着かせながらカンファレンスルームに入った。
「俺さぁ、病院内は自由に動けるんだけど、病院からは出られないみたいなんだよなぁ」
真田先生が石田君のカルテを覗き込みながら話し始めた。
「残念だなぁ、神崎君と由芽ちゃんのデートが見たかったのになぁ」
「ちょ!!!」
思わず声を上げる颯太。しかし真田先生は、その反応を見てさらに楽しそうに笑い出した。
「由芽ちゃんとのデートは、石田君の手術を成功させたご褒美にとっておけ」
ようやく笑いを止めた真田先生が親指を立てて見せる。その姿が妙に頼もしく感じられた。
「べ、別にそういうんじゃ…」
颯太は言い訳をしようとしたが、すでに、真田先生はすでに石田君のカルテに集中していた。まるでからかうだけからかって、真剣になるその態度に、颯太は真田先生のペースにすっかりはまってしまったことを感じて苦笑いをした。
「検査結果も出してくれ」
真田先生の言葉に促され、颯太はカルテをめくりながらこれまでの経過と検査結果を並べて説明していった。
心房中隔欠損症とは、心臓の中にある4つの部屋、すなわち左右の心房と左右の心室のうち、左右の心房を隔てる中隔に穴が空いている状態のことを指す。
石田君の場合、この穴は先天性、つまり生まれつきのもので、1000人に1人ほどの割合で見られる病気だ。これ自体はそれほど珍しい病気ではない。
成長とともに自然に穴が塞がることもあるが、症状が悪化するケースも少なくない。特に心房中隔欠損症は、未治療のままだと心臓や肺に大きな負担をかけるため、経過観察が非常に重要だ。
定期的な検査と診察で症状が増悪していないか、手術が必要かどうかを慎重に判断していく必要がある。石田君の場合、心房の穴から血液が混ざり合い、全身への酸素供給が不足している。特に大泣きした時にはチアノーゼ、つまり皮膚や粘膜が青紫色になる現象が見られるほどだ。
これは血液中の酸素濃度が低下している証拠であり、石田君の心臓がその負担に耐えられていないことを示している。入院前には血圧がやや高かったが、入院中もその状態が続いている。
さらに、入院前には見られなかった呼吸困難感も現れている。これらの症状は、心臓の状態が悪化していることを示唆しており、手術の必要性が高まっている。
颯太はカルテをめくりながら、石田君のこれまでの経過と検査結果をじっくりと説明した。真田先生は黙って聞き入っており、その真剣な表情が颯太に緊張感を与えた。
「以上がこれまでの経過です。体に負担の少ないカテーテル手術を行うか、外科的治療を行うか悩んでいましたが、検査で穴の位置や大きさがはっきりとわからなかったため、外科的治療を家族と相談して決めました。」
カテーテル治療は、胸に大きな切開痕を残さず、回復も早い。また、手術中に心臓を一時的に停止させたり感染のリスクも低い。しかし、石田君のケースではカテーテル治療の適応が難しいと判断されたのだ。
「そうだな。外科手術が最適だろう。」
真田先生はそう言って、颯太の横の椅子に腰を下ろし、足を組んで腕を組んだ。その姿勢には、自信と経験に裏打ちされた確信が感じられた。
「石田君と手術のことはわかった。神崎、目を閉じてみろ」
真田先生の指示に従い、颯太はいわれるがままに目を閉じた。
「手術室を思い浮かべてみろ。そこに手術を待っている石田君が横たわっている。麻酔も完了し、人工心肺も準備は完璧だ。向かいには木村がスタンバイしている。颯太、お前の一声、一刀で手術が始まるんだ。ほら、手を構えて」
真田先生の言葉に導かれ、颯太は心の中で手術室の光景を描き始めた。目を閉じると、薄暗い手術室の中で、明るい手術灯の光が石田君の体を照らしている様子が浮かび上がる。医療機器の音が微かに聞こえ、部屋には消毒液の匂いが漂っている。
「まずは心臓の位置を確認し、慎重にメスを入れるんだ。焦らず、ゆっくりと呼吸しろ」
真田先生の声が遠くから響いてくる。颯太は深呼吸をし、心を落ち着ける。頭の中で、石田君の心臓を確認し、正確にメスを入れていく様子を想像する。心房中隔の穴を見つけ、その周囲を丁寧に切開していく。
「次に、人工心肺に切り替える準備をする。ここで一番重要なのは冷静さだ。君の一挙手一投足が石田君の命に直結するんだ。慎重に」
真田先生の声がさらに鮮明に聞こえてくる。颯太は心の中で手を動かし、手術の各段階をシミュレーションする。人工心肺への切り替え、心房中隔の穴の修復、そして心臓の再起動。すべてが順調に進む様子を何度も繰り返す。時間が経つにつれて、颯太は次第に手術の流れを掴んできた。
手の感覚、視覚、聴覚、すべてが一つになり、集中していく。どれくらいの時間が経っただろうか。颯太は深い集中状態に入り、周囲の音や時間の感覚が薄れていた。
ただ、石田君の命を救うための一心で、手術の手順を繰り返していた。
突然、カンファレンスルームの扉が大きく開く音で、颯太ははっと目を開けた。目の前には鷹野先生と藤井先生が立っていた。