石田君の手術まであと3日となった。
颯太は刻一刻と迫るその日をどうにかして回避できないかとばかり考えていた。
これだけたくさんの医者がいる旭光総合病院の中で、自分じゃないとダメなのか…?
手術当日、やはり怖いと言って木村先生に任せようか…
色々な考えが頭に浮かんでは消えて頭を支配していく。どんなに準備をしても、不安は消えず、夜も眠れない日々が続いた。
この日も、19時までの勤務を終えた後、病院の休憩室で一人考え込んでいた。頭の中では不安と恐れが渦巻き、また、どうすればこの手術から逃れられるかという自問自答が渦巻く。
石田君の命や将来。石田君の母親の期待。病院内の同僚たちの視線が重くのしかかる。
現に、木村先生が不在のためか、石田君の手術をするのが颯太なのが気に食わないのか、以前よりも鷹野先生が厳しくあたってきている。
こんな自分には手術をまかせたくないのだろう。それはそうだ。颯太だって、自分の心臓を手術するとなったら自分にはまかせたくない。
颯太は深夜の病院を歩いていた。静寂の中、彼の足音だけが響き渡る。心の中の不安を紛らわせるため、心臓外科の手術準備室へ向かった。木村先生の補助にほぼ毎日入っている手術室。
その横にある手術準備室は手洗い場やガウン、マスクや器具が並べてある。手術準備室から手術室は窓を通して確認できる。その窓を覗き込み、颯太はぐっと息苦しくなる。
薄暗い照明の下で手術台が静かに佇んでいる。
本当に自分がしていいのか?父親のように失敗するんじゃないか…
「お前には無理だ。父親のようにミスをして子供を殺すのか?」
頭の中の誰かが話しかける。
「…俺にはできない」
颯太はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。父親の失敗が頭をよぎり、手術のリスクが現実味を帯びてくる。颯太の心の中で、不安と恐れが増大していった。
父、航太郎は現役時代にした手術のミスで少年を救うことが出来なかった。それにより精神的に追い詰められて颯太が中学生の時に自ら命を絶ってしまったのだ。ぎゅっと胸が苦しくなる。
その時、不意に背後から静かな声が聞こえた。
「大丈夫か?」
驚いて振り返ると、そこには見たことのない人が立っていた。しかし、どこかで見たことのある顔だ…これは…この人は…
「真田…先生?」
それは、先日テレビの飛行機事故で見たばかりの天才心臓外科医・真田龍之介だった。
「あれ?俺を知ってるのか?」
真田先生は、きょとんとした表情をしたが、「俺、そんな有名人?すげーな…」などと呟いている。テレビで見た写真よりもずっと仕草が子供っぽい…。
「あの…飛行機事故…」
「ああ、死んだと思うんだが、なぜか気が付いたらここにいたんだ」
ガハハと真田先生が笑い、颯太は状況がつかめずに立ち尽くしていた。病院は心霊スポットや怪談噺の宝庫であるが、実際に颯太は幽霊などみたことがなかったし、感じたこともない。霊感なんてまったくないと自負していたのだが…。
「ゆ、ゆう…」
「ああ、多分幽霊だな」
事も無げに言い放つ真田先生を前に、颯太はゆっくりと後ずさりして、近くのベンチに腰かけた。本当は逃げたかったが恐怖でうまく走れそうになかったのだ。
そんな颯太を楽しそうににやにやと見ながら、真田先生は自分が幽霊だと証明するかのように、壁をすり抜けたり、体半分だけを出して手を振ったりと悪ふざけとも言える行動をアピールしていた。
「君は、心臓外科医の木村先生のパートナーで神崎颯太。心房中隔欠損の石田悠斗君の手術を3日後に控えた自信のないダメ医者だろ?」
痛い所を突然グーで殴られたような衝撃を受けて、颯太はばっと顔をあげた。かっと一瞬頭に血がのぼるが、それはすべて本当のことだ。
「ええ…そうです。ダメ医者なんです。だから、僕なんかに手術を任せないでほしいのに…」
颯太は深い溜息をつくと、壁にもたれかかった。真田先生は相変らずにやにや顔で腕を組み、颯太を見ている。
「なんで僕がしないといけないんだろうって毎日思ってます。木村先生がしたらいいのに…」
真田先生が颯太の横に腰かける。幽霊なので、本当に腰かけているのかはわからないが、距離が近くなる。
「うじうじするな!呪うぞ?俺が手伝ってやる!だから大丈夫だ!」
重い静寂を切り裂くように、真田先生が大きな声で叫んだ。
「ええっ!ちょ…の、呪うとか本気ですか?!て、手伝うなんて…幽霊なのにできるんですか」
颯太が早口でまくしたてると、真田はにやにやとはまた違った、イタズラっ子のような顔をして、颯太がしゃべるのを見ていた。颯太は下を向き、自分の両手を見つめた。この手で救える命はほんのわずかだ。そのほんのわずかな命も、本当に救えるのか?いくら天才の真田先生に教えられても、ミスしないとは限らない。もちろん自信もない。
「んー…わかんないけど」
「ちょっ…」
「神崎君?」
その時、真田先生とは違う声がして、振り返った。そこには木村先生が立っていて、手にはコーヒーを2本握っている。
「木村先生…出張から帰ってこられたんですか…?」
「うん。今ついたところ。君がこんな時間にここにいるなんて珍しいね?はい、コーヒー」
木村先生から微糖の缶コーヒーを受け取り、頭を下げる。木村先生が、さっきまで真田先生が座っていた場所に腰かけると、ふわりといつもの消毒液の匂いがした。
「ありがとうございます。木村先生こそ…」
「ああ、僕は時間がある時はここで真田と話してるから。コーヒーも、いつも真田の分なんだ」
「えっ!先生も真田先生の幽…」
「まぁ、あいつがいるかはわかんないけどね」
ふわっと真田先生がまた手術室の壁から半身だけだして、「俺は見えてないらしい」と呆れたように言い放つ。
「真田とここで話しているかと思うと、妙に落ち着くんだ。見守っているような気がしてね」
颯太は真田先生を横目に、木村先生を見つめた。本当に見えていないし、声も聞こえていないようだ。
「神崎君、実はね、石田君に『手術は僕がする?神崎先生がする?』って聞いたんだ。そしたら、間髪入れずに、『神崎先生がいい!』って言われたよ」
「…悠斗君が…」
「僕が全力でサポートする。だから、逃げるな」
いつものにこにことした木村先生ではなく、真剣な指導医であり、パートナーの木村先生が語りかけていた。
「俺もいるからな~」
木村先生の後で、真田先生が親指を立ててにかっと笑った。もう、今更にげることはできないのはわかっている。それに、石田君が望んでいるのだ。誰でもない、颯太に命を助けて欲しいと願っている。
「…わかりました。もしもの時はよろしくお願いします」
颯太は、目の前の木村と、そしてなぜか颯太にしか見えない幽霊、真田龍之介に深く頭を下げた。