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第6話

「ただいまー」


「おかえりー」


自宅にはすでに電気がともり、キッチンからいい匂いが外まで漂ってきている。颯太は、母が今日は日勤だったことを思い出しながら、自宅へ入った。


キッチンのテーブルにはすでに夕飯が並べられており、味噌汁からは湯気が立ち上っている。颯太は荷物を置き、手を洗い、仏壇の前に座ると、いつもと同じ穏やかな顔で笑う航太を見つめた。心の中のもやもやは時間とともに一層黒く深いものになっていたが、母に心配をかけるわけにはいかない。颯太は無理矢理笑顔を作り、テーブルに座った。


「おいしそー!いただきます」


看護師として忙しい日々を送る母だったが、どんなに忙しくても食事だけはしっかりと準備してくれていた。父が自殺したあの日も…。


「颯太、なんかあった?」


母の言葉に、意識を飛ばしていた颯太がはっと我に返る。

ハンバーグを口に運びながら、母が優しく問いかけていた。颯太は一瞬ためらったが、母に笑顔を向けた。


「…何もないよ?」


母にはすべて見透かされているかもしれないが、颯太は精一杯笑顔で誤魔化すことにした。


「ね、心臓外科やめて、小児科とかいいんじゃない?颯太、子供好きでしょ」


これは大学時代からずっと言われていることだ。父親と同じ心臓外科医という道にすすむことが不安なのだろう。父と同じように自殺するんじゃないかとの思いもあるのかもしれない。


「んー…でも、せっかくあんな大病院の入職したんだしもう少しやってみるよ」


「そう…。どっちに行ってもお母さんは応援するから。無理はしないでね」


颯太の心の中に母の思いがじんわりと暖かく広がっていた。


手術の日が近づく中、颯太は不安を抱えながらも、ただ仕事をこなしていた。心房中隔欠損の手術は難易度が高いわけではない。それに、木村先生がサポートに入ると言っている。もし自分が手間取っても、木村先生が建て直してくれるだろう。それでも、不安は消えない。


颯太は病室に入り、石田君のベッドのそばに腰を下ろした。颯太が座るのを待って、石田君は無邪気な笑顔を浮かべた。


「先生、手術って痛いの?」


「手術中は眠っているから痛くないよ。でも、手術が終わったら少しだけ痛いかもしれない。でも、痛みを和らげるお薬を使って、つらくないようにするから安心してね」


「先生が僕の心臓、よくしてくれるんでしょ?」


石田君は不安そうに眉を潜めて見つめる。その横で母親は涙を浮かべている。颯太は彼らの命の重みに胸が締め付けられる思いがした。


「僕と一緒に頑張ろうね」


颯太は石田君を安心させるために精一杯の笑顔で答えたが、自分の中に渦巻く不安は消えなかった。病室を出た颯太は、重い気持ちを引きずりながら木村先生のデスクに向かった。


「木村先生、少しお話が…」


颯太が切り出したその瞬間、部屋のテレビが突然緊急ニュースを報じ始めた。特徴的な警報音がテレビに流れる。


「速報です。先ほど、飛行機事故が発生しました。多数の乗客が搭乗しており、全員が死亡したと見られています…日本人の乗客もいた模様です…」


木村はテレビに目を向け、険しい表情を浮かべた。


「なんてことだ…」


颯太も画面に目を奪われた。燃え盛る飛行機の残骸が映し出され、救助隊が懸命に活動している様子が映されていた。どうやら海外の飛行機のようだ。

木村は急いでリモコンを手に取り、音量を上げた。


「これは…もしかして、真田先生の乗っていた飛行機かもしれない…」


医局がそれを聞いて突然騒がしくなる。


「真田先生…?」


木村は深く息をつき、顎に手を当てながら


「そうだ。真田龍之介。心臓外科医で数年前までこの病院で働いていたんだよ。日本に帰国すると連絡があって明日会う予定だったんだ…。この時間の飛行機と言っていたが…」


と呟いた。真田龍之介の名は、颯太も聞いたことがあったが、この病院に勤務していたとは思わなかった。彼はフリーランスとして全国を飛び回っていると思っていた。

部屋の中は緊張した沈黙に包まれ、テレビ画面に映る惨状が心に重くのしかかった。


翌朝、颯太は重い気持ちを抱えながら病院に向かった。昨夜の飛行機事故のニュースが頭から離れず、心の中に漠然とした不安が広がっていた。医局に入ると、同僚たちが深刻な表情で話し合っているのが目に入った。木村先生が一人ひとりに声をかけながら、皆に何かを伝えている様子だった。

颯太は木村先生に近づき、挨拶をした。


「おはようございます、木村先生」


「おはよう、神崎君。ちょうど君に伝えたいことがあるんだ」


木村先生に促され、医局の一角の会議室に入る。会議室のドアが閉まると、木村は椅子に座り、静かに話し始めた。


「昨日の飛行機事故。その中に、やはり真田龍之介先生が乗っていたことが確認された。彼は亡くなったそうだ」


颯太は言葉を失い、しばらくの間、ただその場に立ち尽くしていた。しばらくの沈黙の後、木村先生が口を開いた。


「昨日も話したが…真田龍之介先生は、この病院の心臓外科に所属していた。しかし、彼の技術と知識は全国に知られており、フリーの外科医として全国を飛び回っていたんだ。彼は多くの命を救い、多くの医師に影響を与えた」


颯太は木村の話に耳を傾けながら、真田先生の偉大さに思いを馳せた。以前、真田先生の論文を読んだことがある。とても難しい症例のものだったが、真田先生の偉大さを目の当たりにした。


「真田先生は、どうしてフリーになったんですか?」


木村は椅子の背もたれに体を預け、遠い目をした。


「彼は自分の技術をできるだけ多くの場所で活かしたいと思っていた。そして、多くの若い医師たちにその技術を伝えたいと活動していた。彼は天才であり、その情熱と献身は誰にも負けなかったんだ。彼の存在がどれだけ大きかったか、今改めて感じているよ」


木村先生は、真田先生の思い出を思い出すかのように、言葉をつまらせながら話した。

颯太は自分との差を強く感じていた。たった一つの手術でこんなにも決断できず考え込んでいる自分と、世界を飛び回り難しい患者を助け続ける真田先生。同じ心臓外科医なのに天と地の差だ。

しかし、自分は真田先生のようにはなれない。所詮、その程度なのだ。


「それで、昨日の話ってなんだったのかな?僕はこれから真田先生のことでちょっと地方に行かなくてはいけなくなって。帰ってくるのは明後日になりそうだ。石田君の手術の前に不在となって申し訳ないんだけど、準備をお願いね」


「わ…わかりました」


颯太は何も言えず、その場に立ち尽くした。テレビでは死亡者の名簿が公開されており、真田龍之介の名前と顔が映し出されるのを、他人事のような感覚で見つめていた。

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