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第5話

午後、颯太が木村先生から指定されたカンファレンス室に入ると、木村先生はすでに奥の机に座っていた。


「すみません、遅れてしまいました」


「いやいや、まだ予定時刻よりも早いよ。ここに座って」


木村先生はにこやかに笑いながら隣の席を指示した。就職して2ヵ月の間、怒られたことも注意されたこともない。そもそも、木村先生が怒る姿など想像もつかない。


「失礼します」


颯太は木村の隣の席に座ると、目の前にカルテが差し出された。


「石田悠斗君のカルテですか?」


木村先生が差し出したのは、石田君のカルテだった。そして、真剣な眼差しで颯太を見つめた。


「神崎君、石田悠斗君の手術を君に任せようと思っているんだ」


木村先生の口調は穏やかだが、言葉には強い決意が込められていた。颯太は驚きで顔を上げ、見つめ返した。


「でも…」


「もちろん、僕も第二執刀医としてサポートするから安心していいよ」


颯太は頭の中で断る理由を必死に探していた。石田君の手術は当然、木村先生が執刀し、自分は補助につくものだと思っていた。石田君やその母親もそう考えているに違いない。


「手術は来週だから、それまでにしっかりと準備しよう」


木村先生は颯太の迷いを察したのか、それ以上の反論を許さないように立ち上がり、颯太の肩を軽く叩いた。


「不安なことがあればいつでも聞いてね。さ、午後の診療に行こうか」


「…はい」


時刻は14時を指している。午後からは病棟回診と検査が予定されている。颯太は石田君のカルテを胸に抱き、木村のあとを追った。

その日の夕方、颯太は石田悠斗君の病室へ向かった。

心の中では様々な思いが交錯していたが、颯太は落ち着いた表情を保つよう努めながら、石田悠斗君の病室の扉をノックした。中の机で母親が何かの書類を書いており、石田君は窓際のベッドに横たわっていた。


「こんにちは、悠斗君。調子はどう?」


颯太はにこやかに声をかけて部屋に入った。石田君は少し恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに微笑んだ。


「先生、こんにちは」


母親も微笑みながら軽く頭を下げた。颯太はベッドのそばに座り、石田君の手を取りながら優しく話しかけた。


「体の具合はどうかな?」


話しながら、颯太は石田君の脈を計り、呼吸の状態やモニターに映し出されている心電図を見つめた。入院前の検査では血液の逆流がかなり進行しており、症状が現れていたことが分かった。おそらく、石田君はこれまでかなり症状があったはずだ。親を心配させないよう、我慢していたのだろう。


「寝てるときは大丈夫だよ」


初対面の診察からは嘘のように、石田君は颯太に心を開いていくれている。


「先生、なんかあったの?」


脈を計りながらモニターを見つめる颯太の様子に気づいた石田君が、心配そうに顔を覗き込んできた。

颯太はその質問に一瞬驚いたが、すぐに微笑み返した。


「…ううん、何もないよ。悠斗君こそ、何かあったらすぐ言ってね。すぐにくるから」


その言葉に石田君は安心したようにうなずき、母親もほっとした表情を浮かべた。

石田君の病室を出た颯太は、医局へと戻った。医局内では多くの医者たちが忙しそうに業務をこなしている。颯太は身を小さくし、目立たないようにその間を縫ってロッカーに向かい、ロッカーへ白衣をかけた。そして荷物を手に取り、タイムカードを押して軽く挨拶を済ませると、医局を後にした。


病院近くの駅のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと夜空を見上げると、空はすっかり夜の表情をしている。言葉にできない不安や焦燥感が胸の中で渦巻き、もやもやとした霧が心を覆っている。

海外を放浪していた時に、数件の心房中隔欠損の手術に第二執刀医として参加した経験はあるが、自分が執刀医として手術を行うのは初めてだ。自分にできるのだろうかという疑念が頭をもたげる。颯太は深く深呼吸し、再び夜空を見上げた。


一方、颯太が出て行った後の医局では、鷹野が木村に再びくってかかっていた。


「木村、本当に石田悠斗君の手術をあいつに任せて大丈夫なのか?」


鷹野の声には昼よりも強い苛立ちが滲んでいた。それを横目に見ながらも、木村は書類から顔をあげようともせず、手も止める気配もない。藤井も立ち上がり、鷹野の横に立った。


「僕は心房中隔欠損の症例経験があります。僕に任せてもらえませんか」


藤井は鷹野よりも一歩前に出て、木村に話しかけた。木村はふーっと大きな溜息をつき、ペンを止めて顔をあげた。


「藤井君、医者は病気を診るんじゃない。人を治療するんだ。経験が長くなると忘れがちになるから、よく覚えておいてね」


木村はいつもの穏やかな顔でにこりと笑い、再びペンを持って書類を書き始めた。もう話は終わりだと言わんばかりの雰囲気を醸し出している。

鷹野はぎりっと奥歯を噛みしめ、自分の席へ戻っていった。藤井も悔しそうな表情を浮かべながら、その場を離れた。

木村の言葉が静かに響き渡る医局には、一瞬の静寂が訪れていた。

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