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第 4話

「そろそろ就職して一ヵ月ね。どう?同僚の人たちとはうまくやってるの?」


母・美千代が出来立てのお弁当を袋に入れながら、仏壇に手を合わせ、目を閉じていた颯太に話しかけた。数秒して、颯太が目を開け、顔をあげて立ち上がった。


「うまくやってるかどうかはわからないけど、もめてはいないよ」


のらりくらりとした返答に、美千代は眉をひそめながらお弁当を差し出した。颯太が就職してから毎朝する同じ質問に、判を押したように同じ返答をする息子。それ以上の質問は受け付けないという雰囲気も感じてしまい、ここでいつも美千代は黙ってしまう。


「いってきます」


颯太はお弁当を受け取り、家を出た。就職して約1ヵ月経つが、残業をする様子も、同僚や先輩と食事に行く様子もない。美千代は息子と同じ心臓外科医だった夫、航太郎の仏壇の前に座り手を合わせる。


『あの子の事、どうか見守ってください』


美千代はこの日も、長く仏壇を拝んでいた。

颯太は旭光総合病院のロビーを通り過ぎ、エレベーターで5階まで上がった。

更衣室に荷物を置き、白衣に着替えると、医局へ入った。ようやくこの動きにも慣れてきた。


颯太は始業予定時刻よりも30分ほど前に到着するのが常だ。同じ勤務時間をとっている木村先生は、いつでも颯太より早く到着している。医局に入ると、木村先生が鼻歌を歌いながら掃除機をかけている姿が目に入った。


「おはようございます。掃除機かわります」


颯太は微笑みながら声をかけた。


「神崎君か、おはよう!もう終わるから大丈夫だよー」


木村先生はにこにこと笑顔で応え、掃除機を片付けて戻ってきた。颯太は木村先生にコーヒーを手渡した。朝一番に木村先生自身がセットしたものだが、これが本当に美味しいのだ。


「神崎君、今日は外来に石田悠斗君という7歳の男の子がくる予定だ」


木村先生はカルテを見ながら話を続けた。


「はい、カルテ見ました。たしか…先天性の心房中隔欠損で通院している子ですね」


旭光総合病院は、産科、小児科も備えている病院だ。もちろん、心房中隔欠損のような先天性の心臓疾患も循環器科の中の心臓外科が担当する。


「しばらくは調子がよかったんだけど、ここ半年、ちょっと症状が悪化しているようなんだ。丁寧に診察してもらえるかな?」


毎日の外来診察は、全員予約患者の診察なので、颯太は前日にカルテを確認し翌日の診療に従事するようにしていた。石田君の状態も二週間前に診察した木村先生がことこまかに記録しているのを昨日読んだばかりだ。


「わかりました」


「木村、石田悠斗君診察は、本当に神崎に任せていいのか?」


その時、突然、うしろから低く響くような声がして、颯太は体を強張らせた。振り返ると、夜勤明けの鷹野先生と、藤井先生が不機嫌そうに立っていた。


「木村先生、今日は僕も外来診察に出るので、石田君は僕が診察します」


藤井先生が一歩前に出て、颯太をぎろりと睨んだ。颯太はそれを聞いて、石田君のカルテを藤井先生に渡そうと差し出そうとしたが、木村先生にそれを制されてしまった。


「藤井先生には別の患者さんをみてもらいたいんです…」


木村先生はそう言うと、藤井先生を連れて奥のカルテの棚まで行ってしまった。その様子を見ながら、宙ぶらりんになったカルテを、颯太は再び握りしめた。


「ふん、負けたくないというプライドはないのか。イライラする」


鷹野は一連の様子を見て、颯太に聞こえるように言い捨て、自分のデスクへ戻っていった。母には職場の話などまったくしないが、どうやら鷹野先生と藤井先生には嫌われているらしい。颯太は別に心臓外科としてより難しい手術に挑もうとも思わないし、みんなのように技術もないし並べるものでもないし、と割り切っているので、そんなに自分を敵対視しなくても…とも思っている。


颯太はカルテを持ち、1階の外来へ降り、業務を始めた。外来の待合室には、患者たちが順番を待って座っていた。颯太は一人ひとり丁寧に問診し、聴診器を当てて心音を確認する。症状が現れるであろう病院以外の様子も事細かに聞いていくため、彼の診察は他の医師よりも時間がかかっていた。一人の診察時間を5分程度に設定している外来診療は、颯太の診察だけいつもかなりのズレを出していた。

予約時間よりも1時間ほど遅れて、石田悠斗君の順番が来た。


「石田悠斗君。はじめまして。神崎颯太です。よろしくね」


「…」


石田くんは口をむっと引き結び、何も答えない。颯太は彼の顔色を確認した。チアノーゼは出ていないようだ。聴診器をあてて心音を確認すると、やはり雑音が聞こえる。血圧はやや高めで、脈もリズムがやや乱れている。

診察前に計った体重も、7歳にしては軽く、半年前よりも増えていない。


「今年から小学生なんだよね?学校、どうかな?」


「…」


「こら、悠斗。ちゃんと答えなさい」


母親が促すが、石田君は頑固そうな眼差しを崩さない。颯太は彼の頑固さとそれを心配する母親をほほえましく思いながら、少しずつ心を開いてもらおうと話を続けた。


「運動すると息が切れる?他の友達は普通にしていることができないのは悔しいよね」


「…」


「先生は今でも、まわりが出来て自分だけできないことがあると悔しい。悠斗君の気持ち、少しはわかるよ」


石田くんがぱっと顔をあげた。7歳の男の子にとって、学校の体育や部活、外遊びができないのは相当なストレスだろう。


「悠斗君の体のこと、一緒に考えていきたいんだ。色々聞かせて欲しいな」


一方的な颯太の言葉だったが、しばらく聞いていた石田君がぽつりぽつりと話し出した。


「みんなが教室でお絵描きするときは一緒に出来るけど、鬼ごっこって外に行くといつも一人きりになる」


「そっか…。外に行きたいんだね」


石田君の目に涙がみるみるたまり、わっと泣き出した。しばらく泣いていると、やはり泣き続けるとチアノーゼが出るようだ。これでチアノーゼが出るならば、食事もきついのかもしれない。


「悠斗君、来週、心臓の検査をしてみよう」


泣き続ける悠斗君にかわり、母親と検査の予定を入れることにした。胸部X線、心電図、超音波。思っているより深刻な状況かもしれないと予感しながら、颯太はこの日の診療を終えた。

颯太の予想通り、石田悠斗君の心臓の状態は深刻なものだった。心房中隔欠損は心臓の中に穴があき、血液が交じることで様々な症状をひきおこしてしまう病気。石田君は心臓の中で逆流を起こしており、なるべく早く手術適応が最適と診断されることとなった。


一方、その検査結果を受けて、心臓外科の医局では木村先生と鷹野先生が睨みあっていた。


「石田悠斗君の手術は神崎君に第一執刀医をお願いしようと思ってる。もちろん、僕も補助で入るよ」


木村が静かに言ったその言葉が、循環器科の医局に重く響き渡った。


「はぁ?神崎に?そんなの無理だろう!」


鷹野の怒号が部屋中に響き渡る。昼休憩をしていた他の医者たちが一斉にこちらを振り向いた。しかし、鷹野はそんなことおかまいなしに木村へ食ってかかった。


「ここへ就職してから2ヵ月。神崎はお前の補助しかしていないんだぞ?しかも、簡単な手術のみ!意欲もない、やる気もない、向上心もないやつに患者の命が救えるか!」


鷹野の言葉は苛立ちを隠さず、その鋭い視線は木村に向けられていた。木村はぽりぽりと頭をかき、天を仰いだ。神崎颯太がこの病院に就職してから、外来では十分に活躍していた。しっかりとした問診に聴診、病気を見つけ出す能力にも長けている。鷹野は知らないようだが、颯太は毎日重い本を持って出勤しており、休憩時間には本を読むかカルテをじっくりと見ている。決して向上心がないわけではないのだろうが、鷹野には関係のないことなのだろう。


「まぁ、僕がついてるから大丈夫だよー」


木村は、話は終わりとばかりに立ち上がり、コーヒーを入れ席に戻った。しかし、鷹野はそれでも黙っていない。


「真田が海外に行っている間に功績を残したいお前の気持ちもわかるが…」


「そんなんじゃない」


今までの、のんびりとした話し方とは一変し、木村はピシャリと言い切った。

真田龍之介。木村と鷹野よりもずっと若いが、センスと努力によって数々の功績を残している心臓外科医。2年前までこの病院で木村と鷹野と共に3大巨頭として心臓外科を盛り上げてきた天才だ。


「真田は関係ない」


木村は改めてきっぱり言い放つと、鷹野との話は終了と言わんばかりに、院内ピッチで電話をかけ始めた。


「あ、神崎君?昼から相談したいことがあるから、カンファレンス室に来てくれるかなー」


木村の声は元に戻っている。鷹野はぎりっと奥歯をかみしめた。木村の態度に苛立ちを募らせながらも、彼は何も言わずにその場を立ち去った。

木村は受話器を置き、コーヒーを一口飲んでから再び席に戻った。その姿勢には揺るぎない自信が感じられた。

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