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第2話

第一部 初めての挑戦。止まった時が動き出す。

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朝の光がカーテン越しに差し込む中、神崎颯太は静かに目を覚ました。のっそりと体を起こし、小学校時代から使っている古びた机の上に置いてある時計を見る。時刻は6時15分。セットした目覚ましの時刻よりも15分も早い。

颯太は部屋を出て顔を洗い、キッチンへ向かった。テーブルの上にはすでに朝ごはんが並べられている。

「あら、早いわね。おはよう」

お弁当を二つ並べ、卵焼きを作りながら、エプロン姿の母、美千代が振り返って笑った。

母は家族の太陽のような人だ。明るく、いつもはつらつとしていて、お世話好き。まさに看護師が天職のような人だ。

「おはよう。うわ、鮭美味しそう。いただきます」

美千代は味噌汁をつぎ、向かいに座って手を合わせた。

「颯太、今週の私の勤務は、明日が夜勤で明後日は夜勤明けでお休みだから。あとは日勤」

「わかった。こっちはまだわからないんだ。またわかったら教えるよ」

学生時代から変わらないこの朝のやり取りも、颯太を落ち着かせてくれる朝の習慣だ。

美千代は自宅から程近くの病院で看護師をしている。忙しい母に代わって家事をするのも颯太の仕事だ。

もっとも、食事はほとんど作れないのだが。

朝食を終えた後、颯太は着替えてバッグを準備した。バッグに数冊、厚みのある本を入れる。何冊か置いていこうか…と一瞬悩んだが、結局そのまま持っていくことにした。

部屋から出て、キッチン奥の居間にある仏間に入った。

仏壇には、父・航太郎の写真が飾られている。穏やかに笑う航太郎の写真を見て、颯太はふっと笑顔になり、手を合わせ、目を閉じた。

木製の仏壇は、昔から、颯太たち家族の中心にあり続けてきたもので、その中には航太郎の思い出がぎっしり詰まっている。写真の中の父の笑顔は、どんな困難な時も家族を支え続けた。

『父さん、行ってきます。今日は新しい病院での初日です。頑張ってくるよ』

颯太は心の中でそうつぶやきながら、頭を下げた。仏壇の前に座り込んで、静かに目を閉じると、幼い頃の父との記憶がよみがえる。父の大きな手に導かれて歩いた公園の道、夜遅くまで勉強を教えてくれたダイニングテーブル。父の存在は、今でも颯太にとって大きな支えであり続けている。

その時、美千代がそっと颯太の隣に座り、同じように仏壇に手を合わせ目を閉じた。

『航太郎さん、颯太を見守っていてね。私達の息子が立派に成長して、今日から新しい道を歩むのよ』

美千代は心の中でそう祈りながら、静かに息を吐き出した。彼女にとって、航太郎は今も心の中で生き続けている存在だ。颯太が父親と同じ道を歩むことに対する誇りと共に、その道がいかに困難であるかを知る母親としての不安もある。そして、父親と同じ道を選んだ事に対する不安も…。

颯太は深呼吸し、ゆっくりと目を開けた。隣で目を閉じて手を合わせている母親に気が付き、微笑んだ。母が祈り終わるまでじっと待ち、仏壇の中の父を見つめた。彼の心の中で、父の声が聞こえるような気がした。

しばらくして、美千代が目を開けた。母の目には、新たな生活の始まりに対する期待と心配が浮かんでいた。

「行ってきます、母さん」

「うん、行ってらっしゃい、気をつけてね」

美千代はふっと微笑みながら答えた。その笑顔には、息子を送り出す母親の強さと愛情が込められていた。

自宅から電車に乗り30分。駅から徒歩で5分。

颯太は今日から勤務する旭光総合病院の入り口に立った。地下2階、地上12階の大病院だ。自分がこんな大病院に就職できるとは思ってもみなかった。初日だというのにまだ実感が湧かないのもそのせいだ。

目の前に広がる旭光総合病院の巨大な建物は、まるで威圧感を持つかのようにそびえ立っている。ガラス張りのエントランスからは、朝の光が差し込み、反射して輝いている。そして、病院のロゴと「旭光総合病院」の文字が大きく掲げられ、その存在感を一層際立たせている。

颯太は少し緊張しながらも、その光景に圧倒されつつ深呼吸をした。心臓の鼓動がいつもより早く感じられ、体の表面から触っても、高鳴っているのがわかるほどだ。手のひらが汗ばんでいることに気付き、ジャケットのポケットに手を入れて汗をぬぐった。

もう一度ゆっくりと深呼吸をする。冷たい朝の空気が肺に入ってくるのを感じながら、颯太は少しずつ気持ちを落ち着けた。

父の顔がふと脳裏に浮かび、その笑顔に背中を押されるような気がした。小さく、「よし」と気合を入れ、病院の大きなガラスの自動ドアの前に立った。

静かにエントランスの中へ足を踏み入れた。広々としたロビーには、受付カウンターがあり、多くの患者さんがすでに外来の椅子に腰かけていて、職員と思われる人々も行き交っている。颯太はその光景に少し圧倒されながらも、中央横にある受付カウンターに声を掛けた。

「あの…今日から勤務する、医者の神崎颯太です」

受付のスタッフは、颯太の言葉に笑顔で応えた。

「はい、申し送りを受けております。こちらが職員専用エレベーターのコードが載っているネームプレートです。医局のある5階の奥にある心臓外科まで行かれてください」

スタッフから渡されたネームプレートには、職員専用エレベーターのコードが記されていた。颯太はそのプレートを受け取り、指示通りにエレベーターへ向かった。

エレベーターのボタンを押すと、扉が静かに開き、颯太は中に乗り込んだ。5階のボタンを押し、エレベーターがゆっくりと上昇していく感覚に身を任せながら、再び深呼吸をした。

エレベーターのドアが開くと、颯太の心臓はますます強く打ち始める。緊張を抑えながら、医局のある方向へと歩き出した。廊下を進むと、心臓外科のプレートが見え、その扉の前で一瞬足を止めた。何度目かになる深呼吸をして気持ちを整え、ノックをして扉を開けると、そこにはすでに何人かの医師たちが集まっていた。

部屋の中の空気はピリリと緊張感が漂っている。ニコニコと微笑みながら見ている人、ぎろりと睨むような視線を送る人、資料に目を通しながらこちらをちらりとも見ない人。

心臓外科のみの医局だということだったが、ぱっと見ただけでも5人以上の医師たちがいた。

先月の就職面接の時に会った木村忠男先生が、颯太に気付き、笑顔で手を振りながら近寄ってきた。木村先生は人懐っこい笑顔を浮かべている。

「おはようございます。今日からお世話になります、神崎颯太です」

颯太は一礼しながら挨拶した。

「やあ、やあ、改めてよろしくねー」

木村先生は颯太の手を握り、ぶんぶんと振り回した。身長は颯太と同じくらいかやや低く、丸い顔が恰幅の良さを感じさせるが、握った手の感触からは温もりと力強さが伝わってきた。目じりに笑いじわがあり、いつもニコニコしている人なんだろうなぁと感じさせた。

穏やかで患者さんにも親身になって話を聞いてくれそうだなという印象だ。

「鷹野君、神崎君をよろしくね!」

木村先生は後ろを振り向き、眉間に皺を寄せ、こちらを睨むように見下している背の高い男性に声をかけた。細く吊り上がった目と不機嫌そうに口角を引き結んだ顔。白衣のせいなのかかなり痩せていてひょろながく、目つきの悪さもともなって、ヘビのような人だなという印象を受ける。

その鋭い視線に、颯太の心臓が少し早く鼓動を打ち始めた。まさに蛇に睨まれた蛙状態だ。

「神崎颯太です。よろしくお願いします!」

颯太は精一杯の笑顔で挨拶したが、鷹野先生は鼻を鳴らし、冷たい目で見下した。

「ふんっ、根性のなさそうな奴がまたきたのか。役に立とうとするな、邪魔にならないことだけ考えろ」

鷹野先生の睨むように送り続けるその目線に、颯太は動けなくなった。木村先生とは真逆の態度だ。

「…藤井です」

鷹野先生の後ろに控えていた男性が、無表情でぺこりと頭を下げた。

「心臓外科の鷹野京一先生と藤井正樹先生だよ。藤井君は神崎君と同じ年かなー?」

紹介された藤井先生は、颯太よりも少し背が高くやはり見下ろす様に睨んでいる。

鷹野先生と比べると目が大きいため、背はそこまでかわらないがより睨まれているような感覚になる。藤井先生はじろじろと颯太の顔から指まで観察し、本当に医者なのかと疑っているのかもしれない。

「神崎颯太です。よろしくお願いします」

颯太は深々と頭を下げた。

「神崎君、まずは今日のスケジュールを確認しよう。基本的に午前は外来、午後は病棟の診療や検査、カンファレンスや会議と手術が多いかな。指導医は僕、木村だよ。よろしくね!心臓外科には10人の医者が在籍しているんだけど、チームを組んでやっているんだ。また、それは後々説明するね。まずは1週間、見学についてもらって、外来は来月から。手術はまた様子を見てお願いするね!」

流れるようにたくさんの情報を伝えられたが、木村先生の話し方が上手なのか、すっと頭に入ってくる。やはり、木村先生はすごい人なのだろう。

「…わかりました」

颯太の表情がわずかに曇ったのを、木村先生は見逃さなかった。木村先生の視線には、颯太の内心を見透かすような鋭さがあったが、それに気が付いたのは鷹野だけであった。

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