道院に帰ってきて、共同宿舎の前で着地する。すると、今さらながら殴られたところが痛んできた。そういえば、まだ治していなかった。
(大家さんが手当てしてくれてるとはいえ、痛いものは痛い)
頬をさすりながら自室に向かおうとした、そのときだった。
「お、
背後から声がする。
「おいおい、それ、どうしたんだ?」
晧月が驚いた様子で尋ねてきた。どう説明したものか、と考えたが、素直にゴロツキに殴られたことなどの事情を説明する。
「よーし、林杏。あとでそいつらと、叔父夫婦の人相教えろ。ちょっと知り合いにかけ合って、逮捕してもらうぞ」
晧月がそう言った。晧月の知り合いとは、おそらく役人だろう。それも立場がそれなりに上であることが予想される。自分のことで、晧月の手を煩わせるわけにはいかない。
「い、いや、そこまで大ごとでは……」
「大ごとだ」
低い声。一瞬誰のものかと思ったが、どうやら浩然のようだ。まとっている雰囲気が、いつもと違うような気がする。
「女性の顔を殴るなど、男にあらず。それから林杏、お前はもっと自分を大事にしろ。自分で自分を
浩然の普段より鋭い目つきと威圧感に、林杏は思わず大人しく従った。浩然は頬の裏側や歯などを診ると、次に気を操作する動きを見せた。痛みはやわらぎ、腫れもひいていく。
「これでいい。だがしばらく念のために、硬いものは水などで柔らかくして食べろ。いいな」
「あ、はい……」
林杏の返事を聞くと、浩然はそのまま立ち去ってしまった。
「怒らせてしまったようです……」
「なあに、犬野郎はその場に自分がいなかったことに怒ってるだけだ。でもまあ、あいつの言いたいこともわかるぜ。お前さんは前世のこともあるかもしれねえが、大切にされるのに慣れてない感じするしな」
「そう、ですか?」
「まあ、人よりはって感じだな。犬野郎が言ってたのも、もっともなことなんだぜ? まあ、もうちょい年を重ねたらわかるだろうよ。あ、それにな、ゴロツキは実行犯、叔父夫婦が指示役ってことで逮捕すれば、姉貴さんも安全になるぜ」
「晧月さん、叔父たちの逮捕、お願いできますか?」
「おう、任せろ。いつでも来な」
林杏は1度自室に戻ってから、晧月の部屋を訪ねることにした。
(自分を大事にする、か。……まだわからないけど、きちんと考えたほうがいいような気がする)
林杏は身に着けている、先日浩然がくれた蓮の髪飾りに、そっと触れた。
晧月に叔父夫婦とゴロツキの人相を教えた次の日。林杏はどうしても浩然に謝りたくて、彼の部屋を訪ねた。しかしどうにもすれ違いばかりで、食堂でも会えなかったので晧月に尋ねると「家族に挨拶しに行くって言ってたぜ」と教えてもらった。
(しょうがない。私も実家行くか)
林杏は浩然と買った罵り菓子と、晧月の友人である
故郷に着くと、畑作業をしている両親と
「おお、林杏。おかえり」
「おかえりなさい、林杏。今日はどれくらい、いられるの?」
「ただいま。えっと、今日は泊まっていい?」
「もちろんよ。じゃあ、ばんごはんは林杏の好きなものにしましょうね」
母親は弾んだ声で言った。林杏は星宇のほうを見る。幼い頃は色も白く細かったが、農作業のおかげか筋肉がしっかりついているように感じた。
「お久しぶり、星宇。なんか体、ゴツくなった?」
「逞しくなったって言えよな」
星宇は「ほれ」と腕を曲げて力こぶを作ってみせた。しかしもっと体格のいい、晧月や浩然と共にいるせいか、星宇の逞しさがいまいちわからなかった。
「あ、友達と
「なんかうまくなさそうな名前だなあ」
星宇の気持ちはよくわかる。しかし父親は「ほお」と嬉しそうな声を上げた。
「懐かしい菓子だな。休憩にして、皆で食べようじゃないか」
父親はそう言って使っていた道具を片づけた。
「本当に懐かしいわねえ。結婚したばかりの頃、一度行ったときに食べたきりだもの」
どうやら両親の思い出の味らしい。買ってきてよかったようだ。
林杏と両親、星宇も含めた4人は家の中でお茶にすることになった。
「友達と輝州に行ったとか、修業はどうしたんだよ?」
星宇はそう言いながら、のどが渇いていたのか、まずお茶を口にした。
「挨拶回りについて行ったんだよ。指示されたからね」
「どういうことだ? なんで挨拶回りなんてしなくちゃいけないんだ?」
星宇の疑問に答えるついでに、劫のことを全員に説明した。もちろん、死ぬかもしれないことも含めて。両親だけでなく星宇の表情も固まる。
「し、ぬ? おい、なにタチの悪い冗談言ってるんだよ。さすがに怒るぞ」
星宇がぎこちなく笑いながら言う。しかし林杏は首を横に振る。
「冗談じゃないよ。本当に死ぬ。失敗すれば、ね」
場の空気が凍ってしまった。林杏はその空気をどうにかしようと、さらに説明を加える。
「でも、大丈夫。意思表示をしなければ、出たいと思ってても失格とは判定されないから。それに、道院で友達になった人と対策を考えてから臨むつもりだし」
林杏が言葉をつけ足しても、空気は変わらない。果たしてどうしたものか、と考えていると、父親が口を開いた。
「なんで林杏は仙人になりたいんだい?」
「約束したの。ひとりぼっちで、ずっとずっと長い時を生きている人と。仙人になったら、また必ずお茶をしに行くって。もちろんそれだけじゃない。自分が始めたことだから、やりきりたいっていうのもある」
父親と目が合う。ときどき父親は、なにかを見透かすような目をすることがある。まるで人の心が読めるかのように。
「父さんや母さん、それに星宇くんだって、お前のことが大事だ。それはわかっているね?」
「うん」
「死ぬ、というのはどういうことか、わかっているかい?」
「知ってる」
急に苦しくなり、動けないまま、さまざまな気持ちが思い浮かぶ。冷静に死ぬのか、と受け入れている自分と、まだ生きていたいと願う自分が現れるあの感覚を、今でも思い出せる。
父親が小さく溜息を吐いた。
「必ず生きて帰ってくるんだよ」
「おじさんっ、なに言ってるんですかっ」
星宇が声を上げた。
「林杏が死ぬなんて、そんな修行おかしい。なあ、林杏。今すぐそんな修行やめろよ。それで村に帰ってくれば……」
「星宇、私は仙人になる。もう決めてる」
星宇は口の内側を噛み、乱暴に扉を開けると家を出てしまった。彼の罵り菓子に、齧られた跡はなかった。