「ここは……?」
ゆっくり体を起こして周りを見るも知らない場所で、だれかの家のようだ。
そのとき、扉が開いた。入ってきたのは老婆だった。髪は真っ白に染まっており、顔のあちこちにはシミがある。
「おや、起きたかい」
老婆は林杏に近づくと、顔をさまざまな方向から見た。
「やっぱり腫れちまってるねえ。まったくひどいことをするもんだよ。女の子の顔を殴るなんてねえ」
「あ、あの、あなたは……?」
「アタシは
「そうでしたか。ありがとうございます。手当てまでしてくださって」
「大したことないよ。いったい、なにがあったんだい?」
林杏は簡単に事情を説明した。すると大家は「なるほどねえ」と腕を組んだ。
「あの、深緑さんがどこに連れて行かれたか、わかりますか?」
「わからないねえ。でもあんたを助けてから、三十分も経ってないから、牛車だとしてもそれほど遠くは行ってないと思うよ」
「そうですか」
林杏は立ち上がり、ほかに痛い場所がないか確認した。大丈夫そうだ。
「助けてくださり、ありがとうございました。深緑さんを追ってみます」
「なに言ってんだい、あんたも顔に怪我してるから医者に見せないと」
「大丈夫です、治せますから。それでは、失礼します」
林杏は老婆が止めるのも聞かず、林杏は外へ出た。
(とりあえず、空から探してみよう)
林杏は人の目も気にせず、空を飛んだ。
付近に走っている牛車はない。
(叔父さんはたしか……そうだ、
林杏は左を向き、そのまま勢いよく飛んでいった。
しばらく下を見ながら飛んでいると、1台の牛車が見えた。御者をしているのはゴロツキの1人だった。間違いなくこの牛車に深緑がいる。
(どうやって助け出そう。牛車を倒したら深緑さんも危ないし)
そして深緑は逃げ出さないように、誰か2人に挟まれている可能性が高い。もしも左右にそれぞれゴロツキと叔父がいたら。
(さすがに男2人には敵わない。……それなら、窓の外からそれぞれの気を乱すか)
林杏は高度を下げ、飛びながら窓から中を覗き見る。予想どおり、深緑はゴロツキと叔父に挟まれている。しかし幸いにも、拘束はされていないようだ。林杏は牛車から離れないようにしながら飛び続けた。
まずは奥にいる叔父の気を乱す。すると叔父は「あいだだだだだっ」と腹を押さえた。
すぐにゴロツキの気も乱す。ゴロツキも「いでえええっ」と叫びながら頭を抱えるような姿勢で痛がりはじめる。
(今だっ)
林杏は牛車の扉を勢いよく開け、まずは手前にいるゴロツキを外に引きずり出した。ゴロツキが転がっていくが、どうでもいい。
深緑へ両手を伸ばす。深緑は驚いた顔をしながらも、林杏の手を掴んだ。林杏は思いきり深緑を引っ張る。しかし途中で深緑が動かなくなった。気を乱していなかった叔母が、深緑の脚を掴んだのだ。せっかく手に入れた金づるを奪われてたまるか、という感情が顔に出ている。林杏は深緑を引っ張るが、あまり動かない。
すると、深緑が脚を曲げ、叔母を蹴ったのだ。叔母の目を丸くした状態など気にせず、林杏は深緑を引っ張りながら空へ飛ぶ。深緑も足元に気を集め終わったようで、林杏と並んで空を飛んだ。
林杏と深緑はそのまま左手側に全力を出して飛び、牛車と町から離れた。
かれこれ1時間以上、空を全力で移動した。おそらく叔父夫婦とゴロツキは追ってこられないだろう。林杏と深緑はゆっくり着地した。
「杏(シン)さんっ」
「深緑さん、大丈夫でしたか?」
「ええ。ああ、でも杏さん、顔が腫れてしまってます。すぐに治しますね」
「いえ、大丈夫です。私も自分で治せますから。今はあなたの今後について、考えなければいけません」
町に戻れば、再び叔父夫婦に連れて行かれる恐れがある。これから林杏は劫を受ける。劫では一切の術を使うことができないので、なにかあっても深緑を助けられない可能性が高い。
「深緑さん、あなたはどうしたいですか?」
深緑は俯いたが、すぐに顔を上げた。
「もう叔父さまたちとは、関わりたくありません。あの町はとてもいいところでしたが……離れるしかないようです」
林杏も同じ考えだった。
「大家さんには、私から伝えましょう。先ほど助けていただいたので、顔もわかっていますし。深緑さんは身一つになってしまいますが……」
「かまいません。部屋にあるものは、すべて処分してもらってかまいません、とお伝えください。本当は片づけや挨拶をしてから去りたいですが」
しかし、悠長なことは言っていられない。
「すべて、私が大家さんに伝えておきます。深緑さんは、とにかく別のところへ」
「はい。……いっそ、旅をしながら、いろんな人たちを治療してもいいかもしれません。とりあえず1度、端にある
どちらの州も、この
「わかりました。お気をつけて」
「はい。……杏さん、今まで本当に、ありがとうございました。あなたがわたくしと両親を引き離していなかったら、こんな風に心から自由になれなかったと思います」
「よかったです。そう思ってくださって」
「でもわたくしは、杏さんになにも恩返しできていません」
「いいんです。私は深緑さんが強くなって、自身のやりたいことを突き進んでくれるのが、1番嬉しいんです。さあ、早く行ってください。少しでも遠くへ」
「はい。杏さん……ありがとうございました。さようなら」
「ええ。……さようなら」
深緑は林杏に頭を下げると、空を飛んでいった。
(どうか、元気で幸せになって。私にできるのは……林杏にできるのは、祈ることだけだから)
林杏はひとまず、大家のところへ向かった。
大家に深緑はもう戻ってこられない、そしてそのままの状態で立ち去るのを申し訳ないと思っていたことを伝えた。すると大家は「そんな気はしていたよ」と言って、納得してくれた。深緑の部屋の片付けもしてくれるそうだ。
林杏は大家のところから直接、道院へ帰った。深緑の幸せを願いながら。