道院に帰ってきて1日だけ休むと、
昼食を食べ終わってから、林杏は深緑がいる町へ飛んだ。
深緑の家の前に着くと、ちょうど治療が終わったらしい親子連れが出てきたところだった。互いに会釈をして、親子連れの背中を見つめていると深緑が出てきた。
「まあ、
「こんにちは。いつも急にすみません」
「いえ、大丈夫ですよ。あ、でも、この寝台の布だけ洗ってしまっても?」
「もちろんです。一緒に洗いましょうか?」
「そんな。お客さまにそんなことさせられませんよ。すぐに終わらせるので、待っててくださいね」
そう言って、深緑は立てかけているタライを地面に置き、井戸水を汲みに行った。
(深緑さん、逞しくなったな。よかった)
水を運んできた深緑はタライに水を入れると、腰を落としてさっそく布を洗い始めた。そんな深緑の横で林杏は屈んだ。
「杏さん? 中で待っていていただいて、大丈夫ですよ?」
「いいんです。私がこうしたいので」
一日中座り、両親の豪華な暮らしのためだけに存在していた、深緑。そんな彼女が意思を持ち、自分が癒したいと思う人々に治療を施す。自身で選べることの喜びを知ってくれて、本当にうれしい限りだ。
「変わったことはありましたか?」
林杏が尋ねると、深緑は手を動かしながら答えてくれた。
「幸いなことに、ありませんね。叔父もあれから来ていませんし」
「それはよかった。……ああ、そうだ。先日友人と
「まあ、ありがとうございます。それじゃあ急いで洗って、お茶を淹れますね。一緒に食べましょう」
林杏は深緑と雑談をしながら、布の洗い終わりを待った。輝州の人の多さ、持ってきた罵り菓子のこと、あちらで食べた猫の耳という菓子のことなど、どの話も深緑は興味深そうに聴いていた。
洗った布を干すと林杏と深緑は家の中に入り、お茶を飲みながら罵り菓子を食べる。
「おいしい。意外に柔らかいんですね」
「お口に合ったようでよかったです」
林杏も一口食べる。染みこんでいた蜜で口の中が溢れそうになる。幸せとはまさにこのことだろう。ふと、深緑がこちらを見ていることに気がついた。
「どうかされましたか?」
「いえ。今さらなんですが、妹とこんな風に喋ったり食べたりすればよかったなあ、と思いまして。……あの頃のわたくしは愚かで、妹の境遇にも気づけなくて。もっと早く気づいていれば、妹と一緒に家から出ていれば、楽しい日々もあったのでしょうか」
林杏はどう答えるべきか迷った。しかし林杏として言葉をかけることにした。
「そんな風に時折思い出してくれるだけで、妹さんは嬉しいと思いますよ」
「そう、でしょうか」
「忘れられてしまうより、よっぽどいいでしょう」
この流れで言ってもいいのだろうか、と不安に思ったが、林杏は
話を聴いた深緑は何度も首を横に振りながら言った。
「そんな。わたくし、まだ、杏さんになにも返せていません。お願いですから、その劫という試験は受けないでください」
深緑の目に涙が浮かぶ。林杏は微笑んで言った。
「大丈夫、あなたが強くなってくれただけで、私は嬉しいんです。それに、劫で命を落とす気はありません。ですから、終わったら、またきます」
「約束ですよ?」
「ええ」
林杏は小指を差し出した。深緑が彼女自身の小指をからめてこようとした、そのときだった。
大きな音を立てて、扉が倒れてきた。外側には叔父夫婦と、目つきの鋭い男2人が立っている。
「叔父さま? これはどういうことですか?」
「深緑、お前が悪いんだぞ。大人しくついてこないから。皆さん、葉っぱの髪飾りをつけたほうの女がそうです。お願いします」
叔父の言葉を合図に、男たちが入ってくる。1人の男が深緑の腕を強引に掴んだ。
「痛っ。離してくださいっ」
「深緑さんっ」
林杏は男の気を乱そうと試みた。しかしそんな林杏の前に、別の男が立ちふさがる。その男は林杏の頬を殴った。強すぎる力に林杏は体勢を崩してしまう。
「杏さんっ。離してっ、杏さん、杏さんっ」
林杏は痛みに耐えながら、玄関のほうを見る。このままでは深緑が攫われてしまう。林杏は深緑を抱えている男の気を乱そうと、もう1度試みる。しかし別の男に再び殴られた。体勢が崩れて直後、頭に衝撃を受けた。どうやら当たり所が悪かったようだ。
「杏さんっ、杏さんっ」
深緑の声。なんとか立たなければ。そう思うのに、体に力が入らず痛みばかりが増していく。
(ああ……早く助けなくちゃ)
意識が薄れていく。深緑へ手を伸ばそうとしたが、林杏の意識はついに途切れてしまった。