宿に着くと、
「でも、いいんですか? 私が1人で部屋を使ってしまって」
「あのな、林杏。自分ではどう思っているのか知らんが、お前は年頃の娘なんだ。だから男女で部屋を分けるのは当然なんだぞ……」
浩然は溜息を吐きながら、そう言った。しかし林杏は改めて宿の中を見て、気づいてしまったのだ。この宿は上等である、と。よく見ないとわからないが、調度品はどれも高価なもので揃えられており、対応も丁寧だ。
「それにな、林杏。この宿では俺は金払わなくていいんだよ。だから気にすんな」
「おい、ならなぜ3部屋とらなかった? お前と同室は正直嫌なんだが」
浩然が顔を歪ませる。
「しゃーねえだろ。この宿、人気なんだよ。タダで泊まるやつが3部屋もとると、その分儲けが入らねえだろ」
「図々しいお前でも、気を遣うことがあるのか」
「ほんっと俺には失礼だよな。……ったく。じゃあ夕飯まで一旦解散で」
「はい、それでは」
林杏は軽く頭を下げてから、部屋の中に入った。
部屋の壁紙は白く、調度品は赤色のものが多い。寝台の硬さを確かめる。
(道院のものより、ずっとふかふかだっ。というより、こんなに柔らかい寝台、初めて)
林杏はそっと寝台に腰かけた。まるで蒸したての饅頭(まんとう)のように柔らかい。左に倒れ、全身で寝台の柔らかさを味わう。
(はあー……最高)
自然と口角が上がる。林杏は夕飯まで寝台の柔らかさを堪能した。
夕飯が終わり、部屋に戻ってゆっくりしていると、扉が3度叩かれた。
「林杏、起きてるか? 晧月だが」
「あ、はい。すぐ開けます」
扉の前には、晧月しかいなかった。浩然はどうしたのだろうか。そんな風に思っているのが顔に出ていたようで、晧月が小声で言った。
「ちょっといいか? 明日のあいさつ回りのことなんだが」
「はい、どうぞ」
林杏は晧月を部屋に招き入れ、席をすすめた。この部屋には椅子が2脚あるので、林杏は晧月の向かいに座った。
「実は明日のあいさつ回りは、役人や後宮関係の人たちのところに行こうと思ってる」
「なるほど。じゃあ、私たちは別行動のほうがいいでしょうか?」
「ああ。今日1日つき合わせといて、なんなんだけどよ」
「いえ。浩然さんは、晧月さんの出生のことは知らないんでしょう? それならおっしゃっていたように、観光でもしときます。だって
さて、いったいなにを食べようか。すると晧月が頬杖をついて言った。
「1人じゃ危ねえから、ちゃんと犬野郎と回れよ」
「はい、わかりました」
晧月の口から浩然の名前が出たせいか、林杏はあることを思い出した。
「晧月さん、手を繋いでもらってもいいでしょうか?」
「は? まあ、いいけどよ。ほれ」
差し出された晧月の手を握る。浩然よりも手が大きい。ぬくもりは同じくらいのはずなのに、なぜか浩然と手を繋いだときのような、安心感はない。林杏は首を傾げた。
「どうしたんだ、突然」
「いや、今日ずっと浩然さんと手を繋いでいたわけですけど、すごく安心したんですよね。それで、晧月さんとでも同じかと思ったんですけど」
「違った、と?」
「はい」
晧月がニヤリと笑う。なにを企んでいるのだろうか。
「林杏、それはすごく重要だぜ。絶対に覚えときな」
「はあ。わかりました」
なぜ覚えておかなくてはいけないのか。理由がわからないまま、林杏はとりあえず頷いた。
「じゃあ、戻るわ。話はそんな感じだ」
「わかりました。おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
晧月が去った部屋の中で、林杏は考える。
(なんで浩然さんだと安心するって、覚えておく必要があるんだろう? もしかして、なにか劫(ごう)に受かるための秘訣、とか? ……そんなわけないか)
林杏は誰もいない部屋で、ずっと首を傾げていた。
翌日、晧月は朝食を食べ終わるとすぐに出かけてしまった。林杏は久しぶりに食べる普通の朝食を味わっていたせいで、まだ食べ終わっていない。見てみると、浩然は食事を終えていた。
「す、すみません、浩然さん。すぐ食べますっ」
「慌てなくていい。時間はある」
「うう、すみません。
「ほう。どんな前世だったんだ?」
林杏が杏花だった頃の生活を簡単に説明すると、浩然の目つきが鋭くなった。
「林杏、その前世の両親は今、どこにいる?」
「おそらく牢屋の中ですね。私を老人に売ったことを理由に、捕まえてもらったので。晧月さんに協力してもらいました」
「そうか。それなら、いい。虎野郎が噛んでいるのは気に入らんが」
浩然の目つきから鋭さが消える。普段の浩然に戻ったので、再び朝食の温かい豆乳を口に運んだ。もう春になったとはいえ体は冷えているようで、一口食べるごとに全身が温まる。
「はー、おいしい」
「そうか。それはよかった」
ふと浩然の顔を見ると、春の木漏れ日のような温かい笑みを浮かべている。道院では決して見られない表情だ。そんな浩然の表情を見られるのが、なぜか嬉しかった。
朝食を終え、宿の食堂から出ると浩然が尋ねてきた。
「林杏、今日はどこか行きたいところはあるか?」
「そうですね……日持ちするお土産を買いたいです。あいさつしに行く人たちに渡したいので」
「わかった。なにか探しに行くか」
浩然が左手を差し出した。林杏は自身の右手をのせる。そっと握られた右手からは、浩然の体温が伝わる。
(……やっぱり浩然さんに手を繋がれると安心する。お兄ちゃん感があるからとか? 手は晧月さんのほうが大きかったけど、関係なさそうだし)
どうやら気がつかないあいだに首を傾げていたようだ。浩然から「どうした?」と尋ねられる。
「いや、なぜ浩然さんと手を繋ぐと安心するのか、と思いまして。晧月さんとも繋いでみたんですが、なぜか安心感が湧かなかったんですよ。あ、それから晧月さんには『その安心感はちゃんと覚えておけ』って言われたんですよ。浩然さん、なぜかわかります?」
浩然の尻尾が大きく左右に揺れる。安心できる、と言われて嬉しかったのだろうか。
「……林杏、その、これは勝手なわがままだが、こんな風に手を繋ぐのはオレだけにしてくれ。それにもしも安心したいときは、いつでもこの手を貸す。……オレ以外の男に触れさせないでくれ」
浩然の眼差しは熱く、見つめ続けていると焼かれてしまいそうだ。しかしなぜか気まずさは感じず、心地よさがある。
「わかりました。じゃあこの右手は浩然さんとのために、空けておかないといけませんね。あ、浩然さんも私の力が必要なときは言ってくださいね?」
「ああ、そうさせてもらおう。それじゃあ、行くか」
「はい」
林杏は浩然の左手を握る。心地よいぬくもりを感じながら、宿屋を出た。