「おーい、
返事がない。留守なのだろうか、と思っていると晧月はためらいなく、扉を開けた。
「おい、虎野郎。さすがに人様の家に勝手に入るのは……」
「いや、芸のやつは集中しだすと、まったく音が聞こえなくなるから、これくらいしないと1週間は通い続けることになるぜ」
晧月に続いて家の中に入ると、墨の匂いに出迎えられた。
「あ、足元気をつけろよ。絵があちこちにあるからな」
言われて下を見ると、確かに黒い墨で描かれた絵があちこちに散らばっていた。繋いでいた
部屋の奥には1人の人間がいる。背格好から察するに女性。髪は紫を含んだ黒で、高く1つに結っている。この人物が芸だろう。晧月は芸の前に回り込み、彼女の前にそっと手を差し出した。芸の手が止まる。
「コウ、ゲツ?」
「おう。久しぶりだな」
「わあ。死んだかと思った」
「お前ほんっと相変わらずだな。まあ、今回は死ぬかもしれないから、ちょっとあいさつに来たんだけどよ」
「え?」
晧月は飴屋の店主と同じ説明をした。しかし芸の反応は「あっそ」とそっけないものだった。しかし晧月には気を悪くした様子がない。いつものことなのだろうか。
「あ、そんでよ、友達連れてきたから紹介するわ。こっちが
「だからすっと言え、すっと」
「名前覚えてるだけ、えらいだろうが」
「言い争ってるけど、本当に仲いいわけ?」
芸の言葉も、もっともだ。しかし最初の浩然の対応から考えれば、ずいぶんと仲よくなったほうである。
ようやく芸がこちらを振りむいた。目はくりっとしており、まつ毛も長い。
林杏はふと、足元を見る。そこには覚えのある鳥が描かれていた。尾が長く、頭からは羽毛とは別に、垂れるように1房の毛が生えている。
「あ、
「……知ってんの?」
芸の問いに林杏は頷く。
「故郷に鳥好きな子――
「兆尺鳥とは?」
浩然が尋ねてくる。林杏は簡単に説明した。
「幸運を呼ぶとも言われている鳥で、めったに見つけられないそうです。羽毛もほとんど落とさないんですって。見れば一生、羽根を見つければ1年幸運に恵まれるとか。木の実が好きなんですって」
「なんで木の実が好きって知ってんの?」
芸が再び聞いてきた。
「その友人が普段から持ち歩いている、砕いた木の実を差し出したらしいんです。そうしたらたくさんついばんで、最終的には大きいものを持っていったそうです」
「ふーん。木の実、か」
芸は少し考えると筆を持ちかけた。そんな芸の頭を掴んで晧月は言った。
「描くのはいいけど、まずは飯食え。お前さん、ただでさえ偏食でおやっさんの飴しか食わないんだからよ。じき体壊すぞ」
「別にいいし」
「よかねえわ。お前さんなあ、俺やおやっさんはお前さんのこと大事だって思ってんのに、お前さん自身が自分を大切にしなくてどうするよ。あと絵描けなくなるぞ、身体的に」
「うるさ。でも描けなくなるのは困る」
「だろ? だからとっとと食いな」
芸は不満そうだが、晧月が預かってきたサンザシ飴を食べ始める。林杏はそんな芸に声をかけた。
「あの、床の絵、見てていいですか?」
「まあ、いいけど」
「ありがとうございます」
林杏は屈んでじっくりと絵を見る。墨の濃淡で本来の鮮やかな色合いを表現しており、線に強弱はあるが、まったく迷いを感じられない。
(芸さん、鳥のこと全部覚えてから、筆に迷いがないんだ。よっぽど好きなんだな)
浩然も同じような姿勢になり、絵を見ている。
「この鳥、故郷にいたな」
「それはシギですね。羽の模様がいい感じですよね」
「こっちはわかるか?」
「それはアオサギですね」
「アオサギというのか。こいつは水辺でよくぼーっとしていた」
「へえ。私の故郷、山なせいか実際には見たことないんですよね」
しばらく浩然と共に芸の絵を見ていると、晧月が声をかけてきた。
「よし、そろそろ帰るかー。芸、ちゃんと飯食えよ」
「うるさ。……ねえ、あんた。女の人のほう」
芸に声をかけられ、林杏は顔を上げた。
「兆尺鳥の絵、好き?」
「え、あ、はい。すっごく素敵だと思います。濃淡とか、線とか」
「じゃあ、あげる。いらないなら捨てて」
たしか晧月の話では、芸は人に絵をあげたり売ったりしないのではなかったか。しかし星宇にこの絵を見せれば、さぞかし喜ぶだろう。
「ありがとうございますっ。嬉しいです」
「ん」
「はー、珍しいこともあるもんだな。じゃあ、俺ら帰るわ」
「まあ、生きてたら、またね」
「お前さんなあ。いや、いいけどよお。んじゃあ、またな」
林杏も礼を言って頭を下げてから、晧月や浩然と共に芸の家を出た。
5歩ほど進むと、晧月が林杏に言った。
「林杏、お前さん、芸に相当気に入られたな」
「え、そうなんですか?」
「あいつが絵をやるなんて、初めて見たぜ。よかったらまた会ってやってくれや」
「はい、ぜひ」
「じゃあ、宿に行くか。時間的にも、もうそろそろ用意も終わってるだろうしな」
林杏は再び浩然と手を繋ぎ、晧月について行った。浩然の手は最初よりも温かくなっていたような気がした。