少しのあいだ、
「とりあえずお茶でも飲んで、落ち着いたら? せっかく来てくれたんだから」
母親が林杏の目の前に、湯呑みを置いた。水面に気むずかしそうな林杏の顔が映っている。
「今日はゆっくりできるの?」
母親の質問に、林杏が首を横に振ると、母親は残念そうな顔をした。
「忙しいのね」
「そう、なのかな。あんまり意識したことないかも」
「それだけ充実しているってことだな。いいことじゃないか」
父親はそう言って、湯呑みに口をつけた。
「まあ、ここはお前の家だ。いつでも帰ってきなさい」
「そうよ」
「ありがとう。父さん、母さん」
林杏は普段よりもゆっくりお茶を飲むことにした。
ゆっくり雑談をしながらお茶を飲んでいると、気がつくと湯呑みは空になっていた。
「私、そろそろ帰るね」
「そうか。気をつけて帰るんだよ」
そう言う父親の微笑みは、やはり人を投げ飛ばすようには見えない。
林杏は両親が見送るなか、道院へと戻った。
自室に戻ると、林杏は寝台の上であぐらを組み、考えた。
(さて、どうやって深緑さんに不醒蓮のことを伝えるか。……とりあえず深緑さんの様子を見てみなくちゃ)
林杏は千里眼を使い始める。
深緑はちょうど箱の中身を再度確認しているところだった。観察するように見つめ、ふたを閉じた。
(もしかして深緑さんも、箱の中身を気にしてる? ああ、だったら、なおさら伝えたい。その花は不醒蓮で、効果が強まっているんですって)
拳に力が入る。
深緑が寝台のほうを見た。寝ている
「お姉さま、お姉さま、起きてください」
しかし夢華の反応はない。深緑は小さく溜息を吐くと、自身の両方の頬を叩いた。まるでなにか決心するかのように。
深緑は食事の用意をしている欣怡(シンイー)に尋ねた。
「この辺りで薬草が採れる場所はありますか?」
「薬草、ですか。どうでしょう。この周辺はどうしても、百花香に使う植物を育てている畑なんかが多いので、なんとも言えないです」
「そうですか、ありがとうございます。少し出てきますね」
深緑はそう言って、玄関から外に出た。
深緑は空を飛び、村から1番近い町にきた。そして薬局でいくつかの薬草を買い、すぐに戻った。
(深緑さん、なにをする気なんだろう?)
夢華は病で目が覚めないのではない。そのため薬を作っても意味がない。
(ああ、なんとか、なんとか教える方法はないか?)
しかし考えても林杏は、なにも思い浮かばなかった。
深緑は夢華と明珠の家に戻ってくると、欣怡が用意した食事をとり、鍋などの道具を借りていた。なにを作るつもりなのだろうか。
深緑は買ってきた薬草を細かく刻み、水を張った鍋の中に入れる。そして火にかけしばらく煮込んでいた。
(そういえば深緑さんが薬を作るのって、初めて見た)
深緑は【
湯に薬草が溶け、濃い緑色に染まると、深緑は鍋を火から上げた。冷めたのを確認すると湯呑みに注ぎ、夢華のもとに向かった。そして夢華の上半身を起こさせ、支えたまま作った薬を飲ませた。すると夢華は「ごほっごほっ」と咳をしながら目を覚ました。どうやら深緑が作ったのは、気つけ薬だったようだ。
「お姉さま、起きられましたか?」
「えっと、あなたはどなたですか?」
深緑は背中を支えていた左手をそっと離しながら、自己紹介をした。
「私は深緑と申します。診療所を開いているのですが、明珠さんにあなたの治療をしてほしいと頼まれてきました」
深緑は気つけ薬を両手で包み込むように持つと、まっすぐ夢華を見つめて尋ねた。
「お姉さま、あなたはわざと長時間眠っていましたね? なぜですか?」
どうやら深緑は不醒蓮のことに気づいていたようだ。
(まさか自力で気づけたなんて)
林杏は驚かずにはいられなかった。
夢華は俯くと、ゆっくり首を縦に振った。
「なぜ、そんなことを? 明珠さんも心配されていますよ。わざわざ牛車と徒歩でわたくしのところまで、訪ねてきたんですから。男装までしていましたし、長い距離の移動は大変だったでしょう」
「そう、ですか」
夢華の顔には、これといった表情が浮かんでいない。妹が自身のために深緑を訪ね、深緑もその思いに応えたというのに。
「どうぞ、お帰りください。ワタシはワタシの意思で、眠っているのです」
「それでは明珠さんに顔向けができません。理由を教えてください」
深緑はまっすぐ夢華を見つめる。夢華は深緑と目を合わすことなく、ぽつりと答えた。
「眠っているあいだは、あの人に会えるんです」
「……亡くなった婚約者の方のことですか?」
「はい。ある日、夢の中に現れてくれたんです。なにを言っていたかは聞こえませんでしたが、眠ると必ず彼が会いにきてくれるんです」
「だからずっと眠っているんですね。そのお方に会うために」
「はい。眠っている時間だけが、ワタシにとって意味のあるものなんです」
深緑はじいっと夢華を見つめる。
「お姉さま、あなたにとって明珠さんは、なんなのですか? ただの介護人ですか?」
夢華はなにも言わない。深緑は言葉を続けた。
「明珠さんの人生を、心をずっと縛るおつもりですか? たった1人の家族を、
「ワタシだって、幸せになるはずだったんです。それなのに……」
深緑がそっと夢華の背中をさすった。夢華は目を丸くして深緑を見る。
「もう会えない、というのは、悲しいことですね。人生を共に歩もうとしていた人ならば、なおのこと。けれどお姉さま、あなたには、まだ明珠さんがいるじゃないですか。それに、この家の留守を守ってくれるご友人も。あなたは……すべてを失ったわけではないんです。どうか、まだ一緒にいてくれている人に、目を向けてください」
「一緒にいてくれる人に、目を向ける。……そんなこと、できるはずないじゃないですか。彼がいなくなって、ワタシの世界の色は消えました。この世界にいる意味なんて、ないんです」
「お姉さま……」
深緑はついに口を閉じてしまった。
「もう、いいでしょうか? 必要な花を摘んできて、また眠らないといけないんです。眠りさえすれば、彼とまた会えるんですから」
今にも倒れそうな足どりで、夢華は部屋を出ようとする。深緑はそんな夢華の腕を掴んだ。
「もしもわたくしが、あなたの婚約者でしたら、こんな風にいつまでも囚われているのは、苦しくて耐えられません。お姉さま、あなたなら、どうですか? もしもあなたがこの世を去って、明珠さんがずっと泣いていたら。心配しませんか?」
夢華の目が大きく開かれる。深緑の言葉が、夢華の心に芽吹いた瞬間だった。
「でも、彼を忘れたりなんて……」
「忘れなくて、いいんです。ただ、前を向いて歩き出せばいいだけなんです。そのお方と共に」
夢華はその場に座り込み、涙を流しはじめた。そんな夢華を、深緑は抱きしめた。
林杏は千里眼を終える。この様子なら、もう大丈夫だろう。
(深緑さんは、自力で不醒蓮のことに気づいて、対応した。……もう、あの家にいた頃とは違うんだ。私がわざわざ気を回さなくっても、もう平気なんだ)
林杏は安心と、ほんの少しの寂しさを感じながら、目を閉じた。