今日も買い物に行って、店主らしき人物と雑談をしていた。そんな深緑は野菜をおまけしてもらったので、機嫌よさそうに家への道のりを歩いている。
朝食後からずっと深緑の様子を見ていた
深緑が止まったところは、彼女の家の前だった。そこには人間が一人、倒れていた。
「もしもし、大丈夫ですか?」
深緑は倒れている人間の肩を叩いた。しかし反応はない。深緑は脈を確認すると、部屋の中に荷物を置いて、倒れている人間を背負ってなんとか室内に運んだ。
深緑は倒れていた人間を寝台にのせると、じいっと見つめはじめた。気の巡りを見ているのだろう。これといって怪我も病もなかったのか、人間の顔や細い腕を、濡らした布で拭きはじめた。
「あら。もしかして、この方……」
深緑が口を開いた。林杏は思わず首を傾げる。深緑の知り合いだろうか。
深緑は布を洗うと、もう1度倒れていた人間の体を拭いた。その後、深緑は荷物を整理したり、布を洗ったりしたり動いていた。
しばらくして深緑が部屋の中に戻ると、倒れていた人間がちょうど起き上がったところだった。こげ茶の髪は短く、まつ毛は長いが中性的な顔つきをしている。
「あら、目が覚めたんですね」
「ここは……?」
倒れていた人間は周りを見回した。倒れていた人間に、深緑は穏やかな声音で答える。
「わたくしの診療所です。深緑診療所といいます」
「ここがですかっ。よかった……たどり着けた。あ、すみません、申し遅れました。
千里眼を使って見ていた林杏は、あることに気がついた。倒れていた人間の胸部に膨らみはないのにも関わらず、名前は女性のものだった。まさか、と1つの可能性にたどり着く。
「明珠さん、あなたはどこか遠いところから、いらしたのですね。わざわざ男性の格好までしているのですから」
「おっしゃるとおりです。ボクは……失礼、旅の癖が。ワタシは輝(フェイ)州から来ました。牛車も使ったのですが、所持金も底を尽きてしまい、歩いてやってきました」
「まあ、それは大変だったでしょう。どうか、休んでください」
「いえ。そんなわけには、いきません。姉の治療をお願いするために、こちらに来たんです。どうか、姉の様子を見ていただきたいんです」
「お姉さまは輝州にいらっしゃいますか?」
「はい。同じ家に住んでいます」
「なるほど、わかりました」
深緑は奥の部屋に行くと、すぐに戻ってきた。手には小さな麻の袋が握られている。
「少ないですが、これを足しにして牛車でお帰りください。わたくしは空を飛んで、輝州にあるおうちまで行けますから。住所だけ教えていただいても、いいですか?」
「そんな、お金なんて受けとれません。本来ならワタシが先生に、お金を払わなくては、いけないのに」
深緑は首を横に振って、言葉を続けた。
「人は1人では、生きていけないのです。支え合って、支えられているのです。だから、気にしないでください」
もしも深緑のこの姿を、前世の両親が見たらどのような反応をするだろうか。あまりいい反応は想像できなかったので、やはり引き離して正解だったのだろう。
「ああ、なんと慈悲深いんでしょうか。ありがとうございます、ありがとうございます、先生」
「いえ、そんな。わたくしが、明珠さんを背負って飛べればいいんですが」
「そこまで甘えるわけには、いきません。先生だけでも、先に姉のもとに行ってくださると、安心できます」
「わかりました。でもその前に、明珠さんも栄養のあるものを食べましょうね。今から作るので」
「そ、そんなわけには……」
「明珠さんも、無事にお姉さまのもとに帰らないと。ですからまずは、栄養になるものを食べましょう。少しお待ちください。食事が終わってから、住所や目印を教えてくださいね」
そう言って、深緑は立ち上がった。
林杏は千里眼をやめて、大きく息を吐く。
(それにしても、輝州から陽州に来るなんて、大変だったろうに)
輝州は
(輝州なら優秀な医者も多いだろうに。……これはなんだか、一筋縄ではいかないような気がする)
自身の予感はすぐに確信へと変化した。林杏は椅子に腰かけたまま、腕を組んで考えはじめる。
(だったら、また運の操作とかしたほうがいいのか? したほうがいいよなあ)
林杏は腕を組んで考える。深緑が危険な目に遭ってはいけない。
そんな風に考えていると、扉が3度叩かれた。
「林杏ー、
「あ、はーい。すぐに開けます」
林杏が扉を開けると、晧月1人だけだった。
「あれ、今日は
「ああ。前に話した、見守っている人のことを報告したくてな」
なるほど。晧月の出生に関わるのだから、浩然はいないほうがいいだろう。林杏は部屋に通した。椅子を勧め、自身は寝台に腰かける。
「いかがですか? 後宮にいらっしゃる……
「ああ。あれから運の操作を何度かしてな。なんとか親父と離縁して、好いていた男のところで暮らせるようになった」
「よかったですね」
「ああ。好きな相手と一緒にいられるのは、幸せなことだからな。あのお方が幸せそうでよかったぜ。まだまだ見守らなくちゃいけねえが、これ以上に大きな出来事なんてないだろうよ。はー、一区切りついたぜ」
晧月はそう言って、机に頬杖をついた。
「親父に関することは、国や制度が絡んでくることも多いから、頭使うんだよなあ」
げんなりしながら晧月は言った。それはそうだろう。帝はこの国の要なのだから。仙人を目指す前の晧月は、さぞかし気を遣って占いをしていたことだろう。
「んで、そっちはどうよ?」
「そうですねえ……」
林杏は先ほどの深緑のことを説明した。
「輝州って、やっぱり優秀なお医者さんも多いと思うんです。それなのに、わざわざ違う州にいる人間のところに来るってことは、なかなか厄介なんじゃないかと思って」
「まあ、あり得るわなあ」
「やっぱりすぐにでも、運の操作をすべきでしょうか?」
林杏は心がざわついて仕方なかった。
「まあまあ、あんまり慌てんなよ。ことが起こってからでも大丈夫だと思うぜ。見守るっていうのは、目を離さず、危険なときには助けること。お前さんが言ったんじゃねえか。今はまだ危険じゃねえんだから、様子見でいいと俺は思うけどな」
晧月の言うことは、もっともだ。しかしどうにも落ち着かない。
(なんで、ざわざわするんだろう?)
結局考えても、答えは出なかった。