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16.遠方の患者

 深緑シェンリュを見守りはじめて4ヶ月が経った。波健ボージエンのせいで止まっていた、近所の人たちとの交流も増えてきたので、安心している。

 今日も買い物に行って、店主らしき人物と雑談をしていた。そんな深緑は野菜をおまけしてもらったので、機嫌よさそうに家への道のりを歩いている。

 朝食後からずっと深緑の様子を見ていた林杏リンシンは一度休憩するために、千里眼をやめようとした。すると深緑が突然走り出した。

 深緑が止まったところは、彼女の家の前だった。そこには人間が一人、倒れていた。

「もしもし、大丈夫ですか?」

 深緑は倒れている人間の肩を叩いた。しかし反応はない。深緑は脈を確認すると、部屋の中に荷物を置いて、倒れている人間を背負ってなんとか室内に運んだ。

 深緑は倒れていた人間を寝台にのせると、じいっと見つめはじめた。気の巡りを見ているのだろう。これといって怪我も病もなかったのか、人間の顔や細い腕を、濡らした布で拭きはじめた。

「あら。もしかして、この方……」

 深緑が口を開いた。林杏は思わず首を傾げる。深緑の知り合いだろうか。

 深緑は布を洗うと、もう1度倒れていた人間の体を拭いた。その後、深緑は荷物を整理したり、布を洗ったりしたり動いていた。

 しばらくして深緑が部屋の中に戻ると、倒れていた人間がちょうど起き上がったところだった。こげ茶の髪は短く、まつ毛は長いが中性的な顔つきをしている。

「あら、目が覚めたんですね」

「ここは……?」

 倒れていた人間は周りを見回した。倒れていた人間に、深緑は穏やかな声音で答える。

「わたくしの診療所です。深緑診療所といいます」

「ここがですかっ。よかった……たどり着けた。あ、すみません、申し遅れました。明珠ミンジュといいます」

 千里眼を使って見ていた林杏は、あることに気がついた。倒れていた人間の胸部に膨らみはないのにも関わらず、名前は女性のものだった。まさか、と1つの可能性にたどり着く。

「明珠さん、あなたはどこか遠いところから、いらしたのですね。わざわざ男性の格好までしているのですから」

「おっしゃるとおりです。ボクは……失礼、旅の癖が。ワタシは輝(フェイ)州から来ました。牛車も使ったのですが、所持金も底を尽きてしまい、歩いてやってきました」

「まあ、それは大変だったでしょう。どうか、休んでください」

「いえ。そんなわけには、いきません。姉の治療をお願いするために、こちらに来たんです。どうか、姉の様子を見ていただきたいんです」

「お姉さまは輝州にいらっしゃいますか?」

「はい。同じ家に住んでいます」

「なるほど、わかりました」

 深緑は奥の部屋に行くと、すぐに戻ってきた。手には小さな麻の袋が握られている。

「少ないですが、これを足しにして牛車でお帰りください。わたくしは空を飛んで、輝州にあるおうちまで行けますから。住所だけ教えていただいても、いいですか?」

「そんな、お金なんて受けとれません。本来ならワタシが先生に、お金を払わなくては、いけないのに」

 深緑は首を横に振って、言葉を続けた。

「人は1人では、生きていけないのです。支え合って、支えられているのです。だから、気にしないでください」

 もしも深緑のこの姿を、前世の両親が見たらどのような反応をするだろうか。あまりいい反応は想像できなかったので、やはり引き離して正解だったのだろう。

「ああ、なんと慈悲深いんでしょうか。ありがとうございます、ありがとうございます、先生」

「いえ、そんな。わたくしが、明珠さんを背負って飛べればいいんですが」

「そこまで甘えるわけには、いきません。先生だけでも、先に姉のもとに行ってくださると、安心できます」

「わかりました。でもその前に、明珠さんも栄養のあるものを食べましょうね。今から作るので」

「そ、そんなわけには……」

「明珠さんも、無事にお姉さまのもとに帰らないと。ですからまずは、栄養になるものを食べましょう。少しお待ちください。食事が終わってから、住所や目印を教えてくださいね」

 そう言って、深緑は立ち上がった。

 林杏は千里眼をやめて、大きく息を吐く。

(それにしても、輝州から陽州に来るなんて、大変だったろうに)

 輝州はディアオ州とイン州に囲まれるように、位置している。つまり陽州と輝州のあいだには、彫州がある。さらに陽州は広い。東端と西端では気候も文化も違っているほどだ。

(輝州なら優秀な医者も多いだろうに。……これはなんだか、一筋縄ではいかないような気がする)

 自身の予感はすぐに確信へと変化した。林杏は椅子に腰かけたまま、腕を組んで考えはじめる。

(だったら、また運の操作とかしたほうがいいのか? したほうがいいよなあ)

 林杏は腕を組んで考える。深緑が危険な目に遭ってはいけない。

 そんな風に考えていると、扉が3度叩かれた。

「林杏ー、晧月コウゲツだ。いるかー?」

「あ、はーい。すぐに開けます」

 林杏が扉を開けると、晧月1人だけだった。

「あれ、今日は浩然ハオランさんはいないんですね」

「ああ。前に話した、見守っている人のことを報告したくてな」

 なるほど。晧月の出生に関わるのだから、浩然はいないほうがいいだろう。林杏は部屋に通した。椅子を勧め、自身は寝台に腰かける。

「いかがですか? 後宮にいらっしゃる……蛍火インフオさま、でしたっけ?」

「ああ。あれから運の操作を何度かしてな。なんとか親父と離縁して、好いていた男のところで暮らせるようになった」

「よかったですね」

「ああ。好きな相手と一緒にいられるのは、幸せなことだからな。あのお方が幸せそうでよかったぜ。まだまだ見守らなくちゃいけねえが、これ以上に大きな出来事なんてないだろうよ。はー、一区切りついたぜ」

 晧月はそう言って、机に頬杖をついた。

「親父に関することは、国や制度が絡んでくることも多いから、頭使うんだよなあ」

 げんなりしながら晧月は言った。それはそうだろう。帝はこの国の要なのだから。仙人を目指す前の晧月は、さぞかし気を遣って占いをしていたことだろう。

「んで、そっちはどうよ?」

「そうですねえ……」

 林杏は先ほどの深緑のことを説明した。

「輝州って、やっぱり優秀なお医者さんも多いと思うんです。それなのに、わざわざ違う州にいる人間のところに来るってことは、なかなか厄介なんじゃないかと思って」

「まあ、あり得るわなあ」

「やっぱりすぐにでも、運の操作をすべきでしょうか?」

 林杏は心がざわついて仕方なかった。

「まあまあ、あんまり慌てんなよ。ことが起こってからでも大丈夫だと思うぜ。見守るっていうのは、目を離さず、危険なときには助けること。お前さんが言ったんじゃねえか。今はまだ危険じゃねえんだから、様子見でいいと俺は思うけどな」

 晧月の言うことは、もっともだ。しかしどうにも落ち着かない。

(なんで、ざわざわするんだろう?)

 結局考えても、答えは出なかった。


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