カーンッカーンッという、食事の用意ができたことを知らせる鐘の音は、寝ているときに鳴ると毎回驚いてしまう。
(思ったより寝ちゃってたな)
食堂でいつもより時間をかけて食事をとっていると、
「浩然さん」
小さく手を振って名前を呼ぶと、気がついてくれた。食事を受けとった浩然がやってきて、林杏の向かいに腰を下ろした。
「どうかしたか?」
「実は手紙が新たに来まして」
林杏は深緑からの手紙の内容を説明した。
「わかった。また代筆をしよう。町を立ち去るという
「ありがとうございます。本当に、お手数をおかけして」
「いや、問題ない。気を遣わなくていい。この食事が終わったら、部屋に行こう」
「わかりました、準備しておきますね」
そう言って林杏は食事を終えると、一足先に自室に戻った。
手紙の返事を書いてもらうために用意をしていると、食事を終えたらしい浩然がやってきた。返事の内容を言いながら書いてもらう。
『
実は私、この町を去ることになりました。最後に深緑さまがあの男の餌食にならずに済み、本当に安堵しました。
どうか1度も顔を見せずに旅立つご無礼をお許しください。
どうかお元気で』
あまり長々と書くと、言いわけがましくなる。そのため今回は短くまとめることにした。
「今まで本当にありがとうございました、浩然さん。とても助かりました」
「気にするな。……茶でも淹れよう」
浩然はそう言って、持ってきた茶器と茶葉を机の上に広げた。林杏も湯を沸かす。この流れも、すっかりおなじみになった。浩然の持ってくる茶葉は、決まって
(お菓子も
林杏はそんな風に考えながら、桜桃の砂糖漬けを食べ、種を皿の上に吐き出す。
「そういえば、以前話していた、見守っている人ってどうなったんですか?」
林杏はふと気になり、尋ねてみた。すると浩然は湯呑みを持ったまま答えた。
「今は借金取りに追われて、身を隠してるな。今は運がよくなる前の、1番つらい時期だな」
林杏は深緑がつらい境遇のときには、その様子を見ることはなかった。しかし浩然は見なくてはいけない。今回の深緑のときでさえ、林杏はつらかった。浩然もさぞ、心苦しいだろう。
「浩然さん、しんどいときは言ってくださいね。話を聴くくらいならできますから」
「ああ、その際には頼む」
浩然が微笑んだ。そういえば浩然が笑った顔を見たのは、初めてかもしれない。
(そんな風に笑うのか)
意外にも穏やかそうで、眉間のしわは消えている。しかし本人は気がついていないようで、再び湯呑みの中のお茶を飲み始めた。林杏は密かに心が温かくなったのを感じながら、湯呑みに口をつけた。
翌日に浩然が代筆した返事を受けとった深緑は、その竹簡を大事そうに丸め、奥の部屋の引き出しに入れていた。
林杏は内心、波健からの嫌がらせを警戒していたが、なにごともなく日々が過ぎていった。もしかすると立場がなくなったせいでゴロツキに追われて、それどころではないのかもしれない。
(まあ、そのほうが安心ではあるんだけれど)
林杏はそんなことを考えながら、深緑の様子を見守る。
深緑を見守り続けて3ヶ月と半分。まだ深緑の診療所に人は戻ってきていないが、それはこれからの深緑の行動と時間が解決するだろう。
(あ、そういえば、浩然さんにお礼渡してない。どうしよう)
浩然なら「いらん」と一言で済ませそうだが、なにもしないわけにはいかない。
(もういっそ、浩然さんに聞いたほうが早い気がする)
はた、と気づく。そうだ、浩然に直接聞けばいいのだ。そうすれば贈って迷惑になってしまうような品物を選ばなくて済む。
(晧月さんに浩然さんの部屋がどこか聞いてこよう)
善は急げ。林杏は晧月の部屋に向かった。
晧月の部屋から右隣2つ目。そこが晧月から教えてもらった、浩然の部屋だ。林杏は3度扉を叩いた。
「誰だ?」
浩然の声。部屋を間違えなかったことに少しほっとしてから、林杏は口を開いた。
「浩然さん、突然すみません。林杏です」
まるで椅子から転げ落ちるような、大きな物音が中から聞こえた。
「ちょ、ちょっと待て」
どうやら慌てているようだ。やはり急に訪ねるのは迷惑だっただろうか。
(今度からは前もって聞くようにしよう)
林杏がそう決めた頃、背筋をしゃんと伸ばした浩然が出てきた。
「どうした、また返事でも必要になったか? 部屋は……虎野郎から聞いたんだろうが」
「はい、晧月さんに教えてもらいました。浩然さん、今回とてもお世話になったのでお礼がしたいです。なにか欲しい茶葉とか、お菓子とかありませんか?」
「いらん。大したことはしていない」
「そう言われるとは思っていました、なので大人しく引き下がるつもりはありません。なにか言っていただくまで、こちらで粘るつもりです」
浩然を見つめる。浩然は林杏より頭1つ分は大きい。すると突然、浩然が自ら扉に頭をぶつけた。
「は、浩然さんっ? どうしたんですか?」
「いや、理性を働かせるためだ。気にするな……」
浩然は額をさすりながら答えた。そして少し考えたあと「ちょっと待っていろ」と部屋に入ったが、すぐに戻ってきた。
「手を出せ」
「は、はい」
手のひらでゆったりと過ごせそうなくらい小さな巾着が、林杏の右手に転がる。赤い布で花の模様が刺しゅうされている。
「これを毎日持っていてくれ。……それが礼だ」
「え、でもそれじゃあ、私がまた貰うことになります。お礼になってませんよ」
「なる」
「え、でも」
「なる。その巾着、嗅いでみろ」
林杏はそっと巾着の香りを嗅いだ。ふわりと花の甘い香りがする。
「これ、匂い袋ですか?」
「ああ。それを、毎日持っていてくれ」
「毎日……いつまでですか?」
「香りがなくなるまで、にでもするか。それが礼でいい」
そう言って、浩然は扉をそっと閉めた。予想外の流れに、林杏はぽかんとしてしまった。百合の花のように、はっきりとした香り。
(この匂い袋、かわいいな。っていうか、匂い袋なんて持つの初めてかも)
林杏はもう1度匂い袋を嗅ぐ。自然と心が明るくなる。
林杏は自室に戻りながら、何度も匂い袋を嗅いだ。