「お、
「なっ?」
「え、浩然さんもいるんですか? それならちょうどよかったです。見守っている人のことでご報告したいことがありまして」
「お、じゃあ入れよ」
「それじゃあ、お邪魔します」
林杏が晧月の部屋に入ると、たしかに浩然がいた。椅子の側で立っている。
「こんにちは、浩然さん」
「ああ。よかったら座れ」
「俺の部屋なんだけど。まあいいや、座れ林杏」
林杏は2人の言葉に甘えることにして、「失礼します」と椅子に腰を下ろした。まだほんのりと温かい。浩然が座っていたのだろうか。だとすれば、申し訳ないことをしてしまった。
「それで、俺らに報告したいことって?」
晧月に促され、林杏は深緑のことを話す。
「浩然さん、ありがとうございました」
「いや、大したことはしていない」
「よかったじゃねえか。これで姉貴さんのことも一区切りついたし」
「ええ。でもなんだか、心がもやもやしてしまって、素直に喜べないんです」
林杏は小さく溜息を吐いた。すると寝台に座っている晧月が、自身の太ももの上で頬杖をつきながら言った。
「それはある意味、当然だとは思うぜ? だってお前さんの言葉じゃなくって、第三者の言葉を受け入れたんだからな。お前さんは、お前さんの言葉を受け入れてほしかったんだよ」
晧月の言葉はすとん、と腑に落ちた。
「だがまあ、仙人になったときのことを考えると、その感覚は捨てるべきだがな。すべての者に、言葉が届くとは限らん」
浩然の言葉も、もっともだ。しかしどうすれば捨てられるというのか。どうせなら、相手には、いい人生を送ってほしいもの。悪い道に進んでいるならば止めなければ、と思うのが人の心ではないのだろうか。
すると晧月が補足するように言った。
「まあ、でも相手がいい人生送ってほしいって気持ちはな、当然あるよな。だがよ、自分の声って意外と小さい。だから耳元で、はっきり言わなくちゃいけねえときもある。けど、それでも届かないときは届かない。それはな、誰のせいでもねえんだよ」
一生懸命、言葉を届け続けている自分のせいでも、聞く耳をもたない相手のせいでもない。林杏の中で思い浮かばなかった考えではあるが、先ほどのような納得感は得られない。
「はっはっは。すぐには納得できねえわなあ。そりゃあそうだ。ま、届いたらいいかなーって軽い気持ちでいるのが、自分の精神安定のためでもあるぜ。相手と自分は違う人だからな」
晧月の言っていることの意味は理解できたが、なぜか納得はできなかった。そんな気持ちがどうやら顔に出ていたらしく、晧月は笑いながら「まあ、難しいけどな」と続けた。
(晧月さんくらい、たくさんの人と出会えば、そんな風に思えるんだろうか)
林杏は自身の経験の少なさを悔やむ。すると浩然が言った。
「だがまあ、お前が最初に忠告したり、手紙を書いたりしていなければ、その男の言葉も無視されただろう。やってきたことは無駄になっていない」
「そう、でしょうか」
「ああ。お前の言葉は届いていた。少し芽を出すのが遅かっただけだ」
芽が出るのが遅かっただけ。浩然のその一言で心が幾分か軽くなった。
「ありがとうございます、浩然さん」
林杏が笑みを浮かべると、浩然の後ろから尻尾が左右に揺れているのが、ちらりと見えている。
「犬野郎の言うとおりだ。お前さんの言葉がなかったら、姉貴さんはもっと長いあいだ、詐欺師男と一緒にいたかもしれないぜ? だからあんまし気にすんなよ。結果がよかったら、大丈夫だって」
もしも、晧月や浩然の言うとおりなら、林杏の言葉が種のような形で深緑に届いていたなら。過程はそれほど急がなくてもいいのかもしれない。
「はい。ありがとうございます」
やはり晧月と浩然は頼りになる。兄がいれば、このような雰囲気だったのだろうか。
その後、少しだけ世間話をしてから林杏は自室に戻った。
自室に戻って再び深緑の様子を見ることにした。深緑は竹簡の表面を削っているところだった。
(え、なんでまた?)
もしやこちらへ手紙を書く気だろうか。いや、別の人物へ出すのかもしれない。林杏はそのまま深緑を見守ることにした。
そして夜になって辺りが静まると、深緑は自身の家の前に竹簡を置いた。間違いない、林杏と浩然への手紙だ。夜明け前にとりに行くために、その日は早く寝た。
翌日の夜明け前。林杏は深緑の家の前に着き、手紙を回収した。道院の自室に帰ってくると、竹簡を広げる。
『見知らぬあなた様
お返事を待たずに筆をとっている、短気なわたくしをお許しください。
わたくしは、
聞く耳をもたなくって、申し訳ありませんでした。そして、それでもわたくしを見捨てずにいてくださって、ありがとうございます。あなた様がもし、もっと早い段階でこの文通をやめていたら、わたくしの人生はひどいものになっていたでしょう。
どうか、直接お会いしてお礼を言わせていただけませんでしょうか』
林杏は今までとは違う意味で、頭を抱えた。まさか、こうくるとは。いや、深緑の性格から考えれば予想できたことだ。さて、どうしたものか。
(とりあえず会えないって浩然さんに代筆してもらおう)
林杏は浩然の部屋を訪ねようと思ったが、いまだに彼の部屋の場所を知らないことに気がつく。
(今日の朝食のときに相談しよう)
林杏は朝食までもうひと眠りすることにした。