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13.伝わらない

 浩然ハオランの代筆による、深緑シェンリュとの文通を続けて2カ月が経った。しかし深緑の気持ちは変わらなかった。相変わらず詐欺師の波健ボージエンとの交際は続いており、金銭を渡したりガラの悪い男たちの治療をしたりしていた。その結果、診療所に一般人が来ることは大きく減り、蔓細工を買い取ってくれるところも減りつつある。

(とりあえず、悪評がこれ以上立たないように深緑さんの運を操作しなくちゃ。でも運の操作はあくまで応急処置。根本解決をしなければ、いつまでもこのまま、か)

 深緑の運の操作を終えた林杏リンシンは寝台に倒れ込んだ。

「なぜわかってくれない」

 誰もいない部屋で呟く。もちろん返事はない。

(このままじゃ深緑さんは不幸になる)

 目の前の人物が不幸になっていく姿を見るのは、つらすぎる。

(私にできることはないのか。深緑さんが幸せになるために。自由に心地よく暮らしていくために)

 林杏は寝台の上で丸まって考える。しかしなにも浮かばなかった。

(ああ、このまま寝台に溶けてしまえたら、深緑さんのこと考えなくていいのに)

 試験が始まってから、頭の中の大半は深緑のことで占められている。どうして伝わらないのか。なにが悪いのか。林杏の考え方が悪いのか、やり方がいけないのか。

(長期戦と思ったけど、どんどん深緑さんの周りの環境が悪くなっていく。もう、なにがいけないのか、わからない)

 林杏はゆっくり目を閉じる。目元からなにか流れる気配がして初めて、泣いているのだと気がついた。

伝わらない。自分の心配が、好意が、幸せになってほしいという願いが。

(ああ、私には仙人になる素質がないんだ)

 前世ではあなたの妹でした、とでも言えば素直に受け入れてくれるだろうか。それとも信じないだろうか。しかし林杏の中の杏花シンファは眠りについた。もう林杏は、林杏なのだ。

(どうしたら、伝わるんだろう。この気持ちが)

 情に訴えてもだめ、客観的に事実を告げてもだめ。もうどうすればいいのかわからない。ぐるぐると黒い感情が渦を巻き、林杏のなにもかもを蝕んでいく。なにも考えたくなくて、林杏は目を閉じた。


 目を開けると体が少し強張っていた。どうやら眠っていたらしい。頭がぼーっとするなか、林杏は起き上がる。空の色は変わっていないので、どうやらそれほど長くは眠っていなかったようだ。

(とりあえず、もう1回深緑さんの様子でも見るか)

 林杏は千里眼で深緑の家の中を見た。ちょうど治療中のようで、相手は目つきが鋭いゴロツキだ。着物は擦り切れたり汚れたりしているが、貧しいときのそれではない。明らかに殴り合いをしたときの汚れだ。よく見ると返り血も何ヶ所かついている。

「はい、治りましたよ」

「なあ、先生。……おれがこんなことを言うのもなんだが、もう波健とは手を切ったほうがいい」

「え?」

 林杏も耳を疑った。このゴロツキは、明らかに波健の仲介でこの診療所に来ている。この診療所で治療してもらえば、抗争などで人海戦術をとることが可能となる。いくらでもすぐに治るのだから。つまり深緑はゴロツキたちにとっては、なくてはならない存在となっているはず。

「おれたちは表の社会の人間じゃない。あっちこっちの組とやりあってる。波健はあんたを利用して金銭を得るだけじゃなく、おれたちの組にまで食い込んできた。……なあ、先生、あんた気づいてるか? おれたちが出入りしてから、患者の数減ってるだろ? それにあちこちで遠巻きに見られているはずだ」

 ゴロツキに言われ、深緑は思い当たる節があるらしく、視線をせわしなく動かしていた。

「あんたの周りに、忠告してくれる人はいなかったか? 先生は優しい人だ、何人かいただろう。なあ、先生。診療所なんて作ったんだから、あんたは人を救いたかったはずだ。それが今は組の人間ばかり治して、本当に治療が必要なやつらに届いてないっていうのは、本望じゃないだろ?」

「あの、どうしてそんなことを?」

 深緑の言葉はもっともだ。林杏も同じことを思っている。するとゴロツキは床をぼんやりと見つめながら答えた。

「おれの恋人と先生が似てるんだ。どんなやつにも優しいところが。でも恋人は流行り病で死んじまった。治療を受ける金がなかったから。今、おれは、おれと同じ立場のやつらを作ろうとしている。それは……いやなんだ」

 ゴロツキは顔を上げ、深緑を見る。

「なあ、先生。おれの母ちゃんが言ってたんだ、3人同じことを言えば、それは大多数の意見だって。もしもおれを入れて3人言ってきたんなら、それは考えてみたほうがいいぜ」

 ゴロツキは最後に治療の礼を言って、診療所を出た。

 深緑の目線はあちこちに動いている。

「そんな……」

 深緑のぱっちりとした目に涙がにじみ、落ちていく。涙に含まれるのは愛している男に利用されていた悲しみか、なにも気づいていなかった自分への叱責か、それとも両方か。

「どうして。どうして、わたくしは……」

 深緑はしばらく俯いて涙を流し続けていた。


 顔を上げる頃になると、深緑の目は真っ赤になり瞼も腫れていた。しかしどこかすっきりしているように感じる。深緑は自身の両頬を強く叩いた。

「わたくしは、もう自分の足で立てるのです。歩けるのです。この診療所を悪い人たちの巣窟にはさせません。いろんな人を助けるために」

 それはまるで、林杏に宣言しているようにも見えた。深緑の背筋が伸びている。きっともう大丈夫だろう。

 そのとき扉が開く音が響いた。

「深緑ちゃーん、この人のこと治してあげてくれない?」

 波健だ。体格がよく、右頬に傷のある男を連れている。最初に来た男だ。深緑は波健を見る。

「波健さん、あなたが連れてくる人はもう治療いたしません。お引き取りを」

「は? なに冗談言ってるんだよ」

「冗談ではありません。もう今後はあなたと心を通わせるつもりもありません。出ていってください。ここは人を傷つけた人を治すところではなく、苦しんでいる人を癒すところです」

 波健の目つきが鋭くなり、深緑に近づく。

「おい、いい加減にしろよ。お前の機嫌をとるのが、どれだけ面倒だったと思ってんだ。その分、得させてもらってもバチ当たんねえだろ。いいからさっさと治せってんだ」

 波健は腕を上げ、深緑を殴ろうとした。深緑がとっさに目を閉じたそのとき、波健の腕が傷のある男に掴まれる。

「ワリィが、オレは女に暴力ふるうやつがこの世で1番嫌いでなあ。深緑先生、オレたちの組のもんは、もうここには来ねえ。安心しな、アニキも納得してくれるだろうよ、話のわかる人だから。こいつと違ってな」

 傷のある男が掴む力を強めたのか、波健は「いででででっ」と悲鳴を上げた。そして傷のある男は波健を掴んだまま、診療所から出ていった。

 扉が閉まると、深緑はまるで糸の切れた操り人形のように、座り込んでしまった。

「できた……。わたくしにも、できた」

 深緑は満足そうに笑みを浮かべた。


 林杏は千里眼をやめ、寝台に仰向けで倒れた。

「あー、やっとだあ」

 しかしその心には喜び以外の感情もいることに気づいた。喜ばしいはずなのに、なぜかもやもやとしている。

(なんだ、この気持ちは?)

 林杏はどうすればいいかわからないなか、晧月コウゲツ浩然ハオランに報告したほうがいいことに気がつく。浩然の部屋はどこか知らないため、ひとまず晧月のもとを訪ねることにした。


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