夜が明ける寸前。
(これで少しでも、目を覚ましてくれればいいんだけど)
朝食を食べながら林杏は願った。
自室に戻ってきた林杏は深緑の様子を見る。ちょうど深緑は手紙を見つけたところのようだった。巻かれた竹簡を広げ、読んでいる。読み終わった深緑は迷っているようだった。そしてしばらく考えたあと、深緑は奥の部屋に入った。小刀をとりだし、竹簡の表面を削り始めた。
(まさか、返事を書こうとしてる?)
予想外の行動に林杏は深緑の様子を見守る。竹簡の表面を削り終わった深緑は硯や筆などの道具を用意し、墨を
しばらく筆を動かしていた深緑の手が止まる。そして筆などの片づけを始めた。片づけが終わった頃に、治療を求めて1組の親子がやってきた。深緑のもとには今日も多くの患者が訪ねてきた。
1日が終わり、多くの人が眠りにつく頃になると、深緑が竹簡を扉の外側に置いた。
(はあ。今日の見守りは長くなっちゃった。もしもあれが返事なら、とりにいったほうがいいな)
しかし夜中に飛ぶのは危険だ。林杏が手紙を置いたときと同じ、夜が明ける寸前に行くことにした。
夜明け寸前に深緑からの返事をとりに行った林杏は、道院に帰ってくると寝台に腰かけすぐに竹簡の中身を確認した。
『見知らぬどなたかへ
お返事が届くかどうかわかりませんが、書くことにしました。
先日、私の知り合いの人も彼がよくない人だと言っていました。しかしわたくしは、彼のことを愛してしまったのです。この気持ちを抑えることなどできません。
お恥ずかしい話ですが、初めて恋をして愛を知ったのです。彼のことが愛おしくてたまりません。もしも彼にほかに愛おしい人がいたとしても、構いません。わたくしは彼のことを愛していきたいと思います』
林杏は顔を歪ませて天井を仰いだ。
「だめだこりゃーっ」
思わず大きな声が出てしまった。静かな部屋に林杏の声が響く。
(変わらないかー、そりゃそうだよなー。私の言葉でさえ届かなかったんだからなー。っていうかほかに女がいて、それでもいいってなんだっ。もっと自分のことを大事にしてくれっ、幸せになってくれえ)
思わず寝台に倒れる。どうすればいいのか、まったくわからない。
(
林杏は朝食の鐘が鳴るまでもう1度寝ることにしたが、深緑の返事が頭の中にいつまでもあって、結局眠れなかった。
朝食の鐘が鳴り、林杏は深緑からの返事を持って食堂に向かった。食事を受けとると晧月と浩然がやってくるまで待つ。晧月と浩然は、ほどなくして食堂にやってきて食事を受けとっていた。
「晧月さん、浩然さん」
林杏は名前を呼んだ。林杏の存在に気がついた2人がこちらにやってくる。
「おう、林杏。飯一緒にいいか?」
「ええ、もちろん。実はお二方にご相談したいことがあって」
「ほう。オレ……たちでよければ力になろう」
林杏は向かいに座った晧月と浩然に深緑からの手紙を広げた。
「このとおり、なかなか詐欺師男に惚れこんでいるようで……」
「あー、これは好きっていうより、恋に恋してる状態だな、こりゃ」
晧月が頬を掻いて言い、浩然も頷いた。
「恋に、恋する。なんか聞いたことはあります」
しかしどんな状況のことを指すのかまではわからない。林杏は2人に詳しく聞くことにした。
「どんな感じなんですか?」
「なーんていうかなー、こう、相手のことが好きなんじゃなくって、相手を好きになっている自分が好きって感じで、恋してる自分に酔ってる状態だな。まあ、誰しも通る道だな」
相手を好きになっている自分が好き。恋とは相手のことを好きになることでは、なかったんだろうか。ますます恋というものがわからなくなっていく。
「しかし相手が詐欺師となると、この状況はなかなか厄介だ。それに相手の2番目にいるのも精神衛生上よくない」
浩然の言うとおりだ。なぜ妻がいてもいいと思えるのか、林杏には理解ができない。
「なんでよりによって詐欺師を……ぎい」
「まあ、詐欺師っていうのは魅力的に見せる
「いったいどうすれば……」
林杏は頭を抱えた。すると晧月は言った。
「もうしばらく手紙のやりとりを続けるのも手かもな。長期戦に切り替えるんだよ。んで筆跡がばらけちゃいけねえから、犬野郎もしばらく付き合う感じだな」
「うう、さすがにそれは浩然さんに申し訳ないです……」
「いや、問題ない。乗りかかった船だ、代筆は続けよう」
「うう……ありがとうございますう。浩然さんがいい人でよかったですう」
「ま、まあ、お前に頼られるのは……嫌じゃないからな」
なんと頼もしい言葉なのだろう。しかしふと、ある疑問が浮かんだ。
「そういえばなんで浩然さん、最初のほうが私や晧月さんに噛みついてきてたんですか?」
すると浩然は「うっ」と短く声を上げたあと、ぼそぼそとなにか言ったがよく聞こえなかった。
「え? ごめんなさい、聞こえなくって……」
「羨ましかったんだ、お前たちが」
浩然が半ば怒るように答えると、晧月が笑い出した。
「自慢じゃないが、オレは友達がいたことがない。だから楽しそうにしているお前たちが羨ましかったんだ」
まさか以前に晧月が言った、『羨ましいんだろ』という推測の言葉が事実だとは思わなかった。
「なー、予想どおりすぎてびっくりするよな。でもまあ、こうやってつるめたんだから、よかったよな犬野郎」
「うるさい虎野郎。ええい、肩を組んでくるな、毛が暑苦しい」
「失礼な。ちゃんと手入れしてんだぞ、これ。じゃないとすぐにパッサパサになって、みすぼらしくなるんだよ」
「知ったことか、どうでもいい」
林杏は2人のやりとりに思わず笑ってしまった。