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10.手紙

 先に食事をしていた林杏リンシンは一足先に食堂を去り、道具などを用意しておくことにした。墨をるのには少々時間がかかる。

 机の上に硯や筆などを用意し、墨を磨りはじめる。墨を磨る時間はどうにも退屈で、腕はどんどんだるくなるので、あまり好きではない。しかし代筆してもらう浩然に墨まで磨ってもらうわけにはいかない。

(あ、手紙の内容も考えとかなくちゃ)

 林杏は墨を磨りながら、代筆してもらう内容を考え始めた。

 墨を磨り終わったころ、扉が3度叩かれた。

浩然ハオランだ」

「お待ちしてましたっ」

 林杏は勢いよく扉を開けた。浩然の手には茶葉とお茶の道具一式。

「あー、その、手紙を書いたあと、もしよかったら茶でもどうだ? まだ桃園の主がくれたものもまだ残っている」

「え、いいんですか? ぜひ」

 林杏は明るい声音で返事をした。

(このあいだ淹れてもらった、梓涵ズハンさんがくれたお茶、おいしかったもんなー。あー、うれしー)

 林杏が笑顔を浮かべていると浩然と目が合う。しかし浩然はすぐに視線を外した。そして机へ向かう。浩然の背中は晧月よりも小さいが、林杏よりはずっと大きい。そして彼の尻尾は大きく左右に振っていた。

(浩然さん、本当にお茶が好きなんだなあ)

 普段真面目で堅い雰囲気の浩然が、お茶のことになると喜ぶのだと思うと、少々かわいらしく思える。本人に言えば怒られるのがわかっているので、言うつもりはないが。

「それで、なんて書けばいいんだ?」

「あ、はい。ええっとですね……」

 林杏は書いてもらう文章をゆっくり述べ、浩然が一字一句もらさず書く。


深緑シェンリュさま

 突然のご無礼、お許しください。どうしても我慢できずに筆をとっております。

 少し前からあなたが付き合っている男性は詐欺師なのです。私の妹も騙されてしまい、未来とお金の両方を奪われてしまいました。

 しかもあの男には妻もいて、妻は男の詐欺行為を承認しているのです。こんなことがありますか。なぜ妹だったのでしょうか、なぜ妹のすべてを奪ったあの男が生きているのでしょうか。

 どうかお願いします。あなたは騙されないでください。どうか妹と同じ道を歩まないでください』


 浩然の手が止まり、筆を置いた。

「書けたぞ」

「ありがとうございますっ。これでなんとか考え直してくれたらいいんですが」

「なんとも、と言ったところか。知らない相手からの手紙だからな」

「うっ」

 浩然の言うとおりだ。しかし深緑のことだ、無碍にはしないはず。そんなわずかな可能性にかけることしか、今は思い浮かばない。

「と、とりあえず茶でも、どう、だ?」

「そうですね、じゃあお湯沸かします」

「茶はオレが淹れよう」

 しばらくすると湯が沸き、浩然が茶を淹れてくれた。普段はしない、青くも甘い香りが部屋に満ちる。浩然から湯呑みを受けとると、さっそく飲んだ。

「このお茶、本当においしいですよねえ」

「そうだな。普段なら手が出ない金額の茶葉だからな」

「あ、やっぱり高いんですね。そんな気はしてましたが」

 梓涵は桃園の主としての対価として、望んだものが出てくると言っていた。林杏のために、わざわざ高い茶葉を用意してくれたのかもしれない。

(絶対ごうに合格して、またお茶しに行かなくちゃ)

 林杏は再度決意をして、もう一口茶を飲んだ。ふわりと香る桃の実のように甘い匂いは、お茶会の日々を思い出させる。

 浩然と目が合う。

「お茶、おいしいですね」

「あ、ああ。そうだな。……桃園の主が言っていたぞ、次に茶会をするときにも、またうまい菓子を用意しておくと」

「本当ですか? 梓涵さんが用意してくれたお菓子、おいしかったんですよねえ。桃まんにサンザシのお菓子……あー、楽しみです」

 あのときのお菓子のおいしさを思い出し、林杏は表情をゆるませた。

「では次に茶を淹れにくるときは、なにかしら菓子を持ってこよう」

 浩然の言葉に林杏は目をぱちくりとさせた。

「次があるんですか?」

「あ、いや、その、もし、もしあったら、だ」

 浩然は視線をずらしながら答えた。このあいだのように、浩然や晧月の3人でお菓子を食べながらお茶会をするのも楽しそうだ。

「じゃあ次は晧月さんも呼びましょう。喜ぶと思いますし」

「……お前はあの虎野郎のことをどう思っている?」

 浩然の問いに林杏は少し考え答えた。

「いい人ですよね。面倒見よくて、頼りになって、おちゃめで。ちょっと子どもっぽいところもありますけど」

「その、男としてはどうだ?」

「男として、とは?」

 林杏は首を傾げる。出生が特殊なので苦労もしていただろうとは思う。しかし男として、とは具体的になにを指しているのか林杏にはわからなかった。

「恋愛対象として、というやつだ」

「恋愛対象」

 想像していなかった意味で、つい繰り返してしまった。晧月をそんな風に見たことなどない。そもそも恋愛というものが理解できていなくて困っている。

「逆に男性から見てどうなんですか? 晧月さんって」

「は?」

「女性にモテそうな感じなんですか?」

 林杏は恋愛について知識を深めたくて、つい浩然に尋ねた。すると浩然は腕を組んで考えてから答えてくれた。

「まあ、モテるほうではあるだろうな。人付き合いがうまくて、悪くない性格だから。……やっぱり虎野郎には惹かれるか?」

「あ、いえ全然。頼りになるお兄ちゃんみたいな感じなんで。どちらかといえば、恋愛に対して知識を深めたいんです。私にもっと恋愛の知識があれば、もっと上手に深緑さんと詐欺師男を引き離せるのに」

 林杏は歯ぎしりをした。

「そうか、それなら安心した」

「安心?」

「い、いや、すまん。こっちの話だ。それにしても苦労しているみたいだな」

「そうなんですう。今までの深緑さんの生活を考えれば、詐欺師って存在が信じられないとは思うんですが、めちゃくちゃ金づるにされてて。せっかく診療所を開いて自分がしたいようにできてるのに、詐欺師男のせいでめちゃくちゃになりそうです……」

 先日の様子から察するに、詐欺師男はガラの悪い男たちから金をとり、深緑に治療させていくつもりのようだ。このまま深緑の診療所にならず者たちばかりが来るようになれば、深緑の診療所には本当に治療が必要な人が来なくなり、下手をすれば深緑も抗争などに巻き込まれる恐れがある。

(絶対にあの詐欺師男を引き離すっ)

 林杏は改めて熱く決心した。


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