朝食を食べ終わると、下女たちが淹れたてのお茶を4人分運んできた。丸い机の上にある食器を移動させ、湯呑みを置き、急須からお茶を注いだ。ふわりと茶葉の香ばしい匂いがする。
「
前世の母親に声をかけられ、
(そうだ、私は杏花だ。夢の中では林杏って呼ばれていたけれど、本来は杏花なんだ)
もしもこの状態が幻ならば、感覚など存在しないだろう。しかし実際は味も温度も感じる。それならばこちらが現実なのだろう。
(とても長い間、夢を見ていたんだな)
もしも夢から覚めていなければ仙人になっていたかもしれない。湯呑みの中のお茶が写す自身の顔を見ていると、姉が声をかけてきた。
「杏花、あとで刺しゅうの続きをしない?」
刺しゅうをした覚えはない。しかし夢のことを早く忘れて日常に戻るべきだ、とも思ったので、林杏は首を縦に振った。
「さあ、
「はい、お父様。じゃあ杏花、あとでね」
姉に手を振られ、林杏も小さく振り返した。前世の母親と2人きりだ。
「杏花、今日は大人しいわね。夢はそんなに怖いものだったの? よかったらお母さんに話して?」
林杏は迷った。前世の母親は微笑んだまま、林杏が話し出すのを待っている。林杏は少しずつ話すことにした。
「私が売られて、老人のもとで愛人として暮らすことになって。それで老人が死んで冥婚しなくちゃいけないってなって」
前世の母親は静かに林杏の話を聴いている。林杏は続けた。
「それから逃げるために仙人の修業を始めたけど、最終試験に失敗して、死んで。それで記憶がある状態で転生して、また仙人を目指して……という夢、でした」
すると前世の母親は席を立ち、林杏に近づくと抱きしめてきた。
「ああ、かわいそうに。そんな怖い夢なんて、忘れてしまいなさい」
「あの、姉さんのお勤めって、病気の人を治すことですか?」
林杏が尋ねると、前世の母親は頷いた。
「深緑は【
「私、姉さんのその考え方、好きです」
夢の中では前世の両親は姉を利用して、大金を得ていたから。前世の母親が気を悪くするかもしれない、と思った林杏は最低限の言葉で済ませた。
「そうだわ、深緑が戻ってくるまでのあいだ、母さんの相手をしてちょうだいな。お茶のお替りを淹れてもらいましょう」
そう言うと前世の母親は下女を呼び、2杯目のお茶を頼んだ。
(ああ、そうだ。こんなに優しい母さんが、お金に汚いはずがない。やっぱりあれは夢だったんだ)
林杏がそんな風に考えていると、耳元でなにか聞こえたような気がした。耳をすましてみると男性の声のようだ。
『……シ……。リン……』
まるで耳を塞いでいるときに声をかけられたかのように、はっきりしない。しかしなぜか覚えのあるような気がする。
(まあ、気のせいか)
お茶のおかわりが運ばれてきたので、林杏は前世の母親とおしゃべりをしながら姉を待つことにした。
しばらく話していると、昼食の時間に近づいてきた。
「あの、母さん。お昼ごはんの準備をしてくるので、失礼しても?」
林杏がそう言うと、前世の母親はぽかんとした。
「お昼ごはんの準備って、あなた別にすることないでしょう? 下女たちにお願いしてるんだから」
「あ……。そういえば、そう、ですね。実は夢の中では私が食事の用意などをしていたので」
「まあ、それで混乱して変なことを言ったのね。ずいぶんと印象の強い夢だったのねえ」
「はい。まるで現実のようでした」
林杏がそう話すと、扉が開いて深緑と父親が入ってきた。
「おまたせ、杏花。遅くなってごめんなさいね」
「いいえ。姉さんのおかげで、苦しむ人が減ったんですから」
「そう言ってもらえると、気が楽になるわ。さあ、刺しゅうをしましょ」
姉がそう言うと、前世の父親が止めに入った。
「待ちなさい、深緑。もうお昼の時間なんだから、食べてからにしなさい」
前世の父親の言うことも、もっともである。その後すぐに食事が運ばれてきて、林杏は前世の両親と姉と4人で昼食をとった。
午後からは姉の部屋で刺しゅうをする。姉の部屋からは満開の梅の花が見える。窓からは柔らかい日の光が降り注いでいた。
「杏花はこのあいだ作りかけが終わったんだったわよね。今日はどんな模様にするの?」
「そうですね、どうしましょうか」
林杏はそう答えながらも、違和感を覚えていた。刺しゅうの柄が思い浮かばないのだ。まるでなにも知らないかのように。
(どうしてだろう。姉さんとは刺しゅうをするのは初めてじゃないはずなのに。……あれ、なんで姉さんとの記憶がない?)
そのとき、耳元ではっきりと声が聞こえた。
『林杏っ、起きろ。それは幻だ。起きてくれっ』
この声は。ああ、そうだ、この声の主は
(そう、か。これは幻なのか。……そうだ、わかっていたはずなのに。私の家は……こんなに温かくなかった)
すると目の前が強く光った。とっさに目を閉じる。最後に見た姉は優しく微笑んでいた。
目を開いた林杏が最初に見たのは、見覚えのない天井だった。
「林杏っ。よかった、目え覚めたか」
林杏は右を見た。ほっとした表情の晧月が寝台の縁に座っている。
「晧月、さん。私……」
「あの霊真珠っていうの、どうやら幻覚作用のある水を含んでるらしくってな。だから本来は水の中で開けるんだそうだ。すまねえ、林杏。ちゃんとそのこと知ってたら、お前に水かからなかったのに」
「幻覚作用……」
ああ、あの光景は間違いなく幻だった。それも林杏がかつて望んでいた幻だった。
林杏はゆっくり上半身のみ起き上がる。
「晧月さん。背中を貸してくれませんか?」
「背中?」
「はい。……だいぶ心地のいい幻だったんで」
「……そうか。いくらでも使いな」
晧月は林杏に背中を向けた。林杏は晧月の背中に頭を預ける。
(ああ、やっぱり私はあんな風に温かい日々が、欲しかったんだ。前世で家族として扱われたかったんだ)
じんわりと涙がにじむ。あんな日々を過ごせたら、どれだけよかっただろう。あれだけ温かい家族だったら、どれだけよかっただろう。あれだけ優しい両親だったら。姉とあんな風に刺しゅうができたら。
しかしすべては幻だ。現実には存在しない。前世の両親は姉を利用し大金を得ていたし、姉はそのことに気がつかず生かされていた。今頃一人で頑張って生きていくために模索していることだろう。そして前世で林杏は老人の愛人として売られた。それが、現実なのだ。
林杏はひっそりと涙を流した。