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12.ああ……

 朝食を食べ終わると、下女たちが淹れたてのお茶を4人分運んできた。丸い机の上にある食器を移動させ、湯呑みを置き、急須からお茶を注いだ。ふわりと茶葉の香ばしい匂いがする。

杏花シンファ、落ち着いた?」

 前世の母親に声をかけられ、林杏リンシンは頷いた。何度も杏花と呼ばれると、林杏ではなかったような気がしてくる。

(そうだ、私は杏花だ。夢の中では林杏って呼ばれていたけれど、本来は杏花なんだ)

 もしもこの状態が幻ならば、感覚など存在しないだろう。しかし実際は味も温度も感じる。それならばこちらが現実なのだろう。

(とても長い間、夢を見ていたんだな)

 もしも夢から覚めていなければ仙人になっていたかもしれない。湯呑みの中のお茶が写す自身の顔を見ていると、姉が声をかけてきた。

「杏花、あとで刺しゅうの続きをしない?」

 刺しゅうをした覚えはない。しかし夢のことを早く忘れて日常に戻るべきだ、とも思ったので、林杏は首を縦に振った。

「さあ、深緑シェンリュ。そろそろ行こうか」

「はい、お父様。じゃあ杏花、あとでね」

 姉に手を振られ、林杏も小さく振り返した。前世の母親と2人きりだ。

「杏花、今日は大人しいわね。夢はそんなに怖いものだったの? よかったらお母さんに話して?」

 林杏は迷った。前世の母親は微笑んだまま、林杏が話し出すのを待っている。林杏は少しずつ話すことにした。

「私が売られて、老人のもとで愛人として暮らすことになって。それで老人が死んで冥婚しなくちゃいけないってなって」

 前世の母親は静かに林杏の話を聴いている。林杏は続けた。

「それから逃げるために仙人の修業を始めたけど、最終試験に失敗して、死んで。それで記憶がある状態で転生して、また仙人を目指して……という夢、でした」

 すると前世の母親は席を立ち、林杏に近づくと抱きしめてきた。

「ああ、かわいそうに。そんな怖い夢なんて、忘れてしまいなさい」

「あの、姉さんのお勤めって、病気の人を治すことですか?」

 林杏が尋ねると、前世の母親は頷いた。

「深緑は【】ですからね。苦しんでいる人々を癒すのは、あの子にとっての使命のようだから。苦しんでいる人に身分なんて関係ないって言っていたわ」

「私、姉さんのその考え方、好きです」

 夢の中では前世の両親は姉を利用して、大金を得ていたから。前世の母親が気を悪くするかもしれない、と思った林杏は最低限の言葉で済ませた。

「そうだわ、深緑が戻ってくるまでのあいだ、母さんの相手をしてちょうだいな。お茶のお替りを淹れてもらいましょう」

 そう言うと前世の母親は下女を呼び、2杯目のお茶を頼んだ。

(ああ、そうだ。こんなに優しい母さんが、お金に汚いはずがない。やっぱりあれは夢だったんだ)

 林杏がそんな風に考えていると、耳元でなにか聞こえたような気がした。耳をすましてみると男性の声のようだ。

『……シ……。リン……』

 まるで耳を塞いでいるときに声をかけられたかのように、はっきりしない。しかしなぜか覚えのあるような気がする。

(まあ、気のせいか)

 お茶のおかわりが運ばれてきたので、林杏は前世の母親とおしゃべりをしながら姉を待つことにした。

 しばらく話していると、昼食の時間に近づいてきた。

「あの、母さん。お昼ごはんの準備をしてくるので、失礼しても?」

 林杏がそう言うと、前世の母親はぽかんとした。

「お昼ごはんの準備って、あなた別にすることないでしょう? 下女たちにお願いしてるんだから」

「あ……。そういえば、そう、ですね。実は夢の中では私が食事の用意などをしていたので」

「まあ、それで混乱して変なことを言ったのね。ずいぶんと印象の強い夢だったのねえ」

「はい。まるで現実のようでした」

 林杏がそう話すと、扉が開いて深緑と父親が入ってきた。

「おまたせ、杏花。遅くなってごめんなさいね」

「いいえ。姉さんのおかげで、苦しむ人が減ったんですから」

「そう言ってもらえると、気が楽になるわ。さあ、刺しゅうをしましょ」

 姉がそう言うと、前世の父親が止めに入った。

「待ちなさい、深緑。もうお昼の時間なんだから、食べてからにしなさい」

 前世の父親の言うことも、もっともである。その後すぐに食事が運ばれてきて、林杏は前世の両親と姉と4人で昼食をとった。


 午後からは姉の部屋で刺しゅうをする。姉の部屋からは満開の梅の花が見える。窓からは柔らかい日の光が降り注いでいた。

「杏花はこのあいだ作りかけが終わったんだったわよね。今日はどんな模様にするの?」

「そうですね、どうしましょうか」

 林杏はそう答えながらも、違和感を覚えていた。刺しゅうの柄が思い浮かばないのだ。まるでなにも知らないかのように。

(どうしてだろう。姉さんとは刺しゅうをするのは初めてじゃないはずなのに。……あれ、なんで姉さんとの記憶がない?)

 そのとき、耳元ではっきりと声が聞こえた。

『林杏っ、起きろ。それは幻だ。起きてくれっ』

 この声は。ああ、そうだ、この声の主は晧月コウゲツだ。

(そう、か。これは幻なのか。……そうだ、わかっていたはずなのに。私の家は……こんなに温かくなかった)

 すると目の前が強く光った。とっさに目を閉じる。最後に見た姉は優しく微笑んでいた。


 目を開いた林杏が最初に見たのは、見覚えのない天井だった。

「林杏っ。よかった、目え覚めたか」

 林杏は右を見た。ほっとした表情の晧月が寝台の縁に座っている。

「晧月、さん。私……」

「あの霊真珠っていうの、どうやら幻覚作用のある水を含んでるらしくってな。だから本来は水の中で開けるんだそうだ。すまねえ、林杏。ちゃんとそのこと知ってたら、お前に水かからなかったのに」

「幻覚作用……」

 ああ、あの光景は間違いなく幻だった。それも林杏がかつて望んでいた幻だった。

 林杏はゆっくり上半身のみ起き上がる。

「晧月さん。背中を貸してくれませんか?」

「背中?」

「はい。……だいぶ心地のいい幻だったんで」

「……そうか。いくらでも使いな」

 晧月は林杏に背中を向けた。林杏は晧月の背中に頭を預ける。

(ああ、やっぱり私はあんな風に温かい日々が、欲しかったんだ。前世で家族として扱われたかったんだ)

 じんわりと涙がにじむ。あんな日々を過ごせたら、どれだけよかっただろう。あれだけ温かい家族だったら、どれだけよかっただろう。あれだけ優しい両親だったら。姉とあんな風に刺しゅうができたら。

 しかしすべては幻だ。現実には存在しない。前世の両親は姉を利用し大金を得ていたし、姉はそのことに気がつかず生かされていた。今頃一人で頑張って生きていくために模索していることだろう。そして前世で林杏は老人の愛人として売られた。それが、現実なのだ。

 林杏はひっそりと涙を流した。


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