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11.私が、杏花?

 林杏リンシンはゆっくりと目を開けた。最初に見たのは、見覚えのある天井。しかしどこかは思い出せない。だが道院ではないことは確実だ。

 そのとき木の板らしきものを3度叩く音がした。見ると右側には扉があり、すぐに人が入ってきた。葉の形の髪飾りをつけた黒髪の女性。前世の姉である深緑シェンリュだ。

杏花シンファ、やっと起きたのね。もう朝よ」

「え……」

 今、姉は林杏のことを杏花と呼ばなかったか。杏花は林杏の前世の名前で、今の見た目で同一人物だとわかる者はいない。

「あの、今なんと?」

「え? もう朝よって」

「その前です」

「やだ、どうしちゃったの、そんな他人行儀な。……わかった。杏花、寝ぼけてるのね」

 目の前の人物はたしかに前世の名前を呼んだ。林杏は混乱するなか、左側にある窓を見た。そこにうっすら写っているのは前世の自分の顔だった。

(どういうことっ? 私は晧月コウゲツさんと一緒にいたはず。なんで前世の姿に?)

 寝台に姉が近づいてきて、林杏の額に触れた。

「んー、熱はないわよね」

 林杏はあることに気づいた。

「姉さん、なぜ歩いているんですか? 父さんや母さんにぶたれてしまいます、早く戻らないと」

 すると姉はきょとんとしたあと、声を上げて笑った。

「やっぱり寝ぼけてるだけね。よかった。それにしても父さんと母さんにぶたれるって、ひどい夢を見てたのね。朝ごはんできてるから、居間にいらっしゃいね」

 姉はそう言って林杏の頭を撫でると、部屋を去った。

 林杏は口をぽかんと開きながら、姉が撫でたところに手を当てる。

(姉さんが、優しい。それに私の顔が前世のものに戻ってる。……いったいどういうこと? まったくわからない)

 しかし動かなければ、状況を把握できない。林杏は今着ている服を見た。寝巻のようだが、生地は絹だ。

(私が、絹を着ている? なぜ?)

 前世では何度もつくろった麻の服を着ていた。寝台の側にあるタンスを開けると、そこには普段着であろう絹の服が畳まれていた。

(と、とりあえず居間に移動しなくては)

 林杏は黄色い絹の服に着替え、部屋を出た。記憶のとおりなら林杏の部屋から居間へは2度角を曲がる必要がある。杏花のころの部屋は1番奥にある、日当たりの悪い部屋だった。しかしよく考えてみると先ほどの部屋には、日光が十分入っていた。

(もしかして、私の部屋の場所が記憶と違ってたりする?)

 だが今は自身の前世の記憶を頼りにするしかない。林杏は歩を進めた。

 居間の位置は変わっていないようだった。林杏はあることに気がつく。

(あのとき姉さんは『朝ごはんできてるから』と言った。つまり、私は寝過ごしたのか。……殴られるんだろうな)

 しかし呼び出しに応えなくても殴られるので、居間に入るしかない。林杏は扉を開けた。

 そこには姉と前世の両親が座っていた。丸い机の上には四人分の朝食がのっている。

「あ、ようやくきたわ」

「杏花、おはよう。夢見が悪かったんですって? かわいそうに」

 前世の母親から心配するような言葉をかけられ、林杏は目を丸くしてしまった。一瞬嫌味を言われたのかとも思ったが、よくよく思い出すとまずは殴ってきていたので、本当に心配している可能性が高い。

「杏花、どうしたんだ? お前の好きな温かい豆乳と揚げた麩だぞ。座りなさい」

 林杏に声をかける前世の父親が優しく微笑んでいる。蔑むような目でしか見てこなかった、あの守銭奴が。林杏は混乱していたが、座らないことで殴られるのも嫌だったので空いている席――姉の右隣に座った。正面にいる前世の父親は笑顔のままだ。姉にしか向けられなかった笑顔。それが林杏に対しても笑みを浮かべているとは、どういうことなのだろうか。

「それじゃあ、食べようか」

 前世の父親の言葉で、朝食が開始される。前世の母親と姉は林杏のことなど気にせず、朝食を口にしている。林杏はどうすればいいか困惑してしまった。

(食べていいのか? 殴られたりしないか? っていうか食事に同席させてもらえたの、初めてだな……)

 固まっていると、姉が林杏の顔を覗き込んできた。

「杏花、食べないの?」

「食べて、いいんですか?」

「……杏花、本当にどうしたの? なんだか変よ?」

 姉はとても心配しているように見える。前世の母親も姉と同じ表情を浮かべて、林杏に言った。

「よっぽど怖い夢を見たのね。食後に温かいものでも飲みましょう」

 今までに経験したことがない対応に、林杏はどうすればいいのかまったくわからなかった。

(夢。夢? 私がこの人たちに冷遇されていたり、ごうの試験で命を落としたりしたのも夢だった?)

 親が子どもを殴るなど、本来ならばあってはならないことだ。目の前にいる、前世の両親も姉も、穏やかな顔つきをしている。

(そうか、夢だったのか。今までが。これが現実の私の家族なんだ)

 そう思うと、今までのことが少しずつ薄れていくような気がした。苦しいこともあった夢は、さっさと忘れたほうがいい。

 林杏はれんげで温かい豆乳を掬い、口に含んだ。温かく、エビの風味がする。初めて食べたかのようにとてもおいしく感じ、林杏は感動した。


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