そのとき木の板らしきものを3度叩く音がした。見ると右側には扉があり、すぐに人が入ってきた。葉の形の髪飾りをつけた黒髪の女性。前世の姉である
「
「え……」
今、姉は林杏のことを杏花と呼ばなかったか。杏花は林杏の前世の名前で、今の見た目で同一人物だとわかる者はいない。
「あの、今なんと?」
「え? もう朝よって」
「その前です」
「やだ、どうしちゃったの、そんな他人行儀な。……わかった。杏花、寝ぼけてるのね」
目の前の人物はたしかに前世の名前を呼んだ。林杏は混乱するなか、左側にある窓を見た。そこにうっすら写っているのは前世の自分の顔だった。
(どういうことっ? 私は
寝台に姉が近づいてきて、林杏の額に触れた。
「んー、熱はないわよね」
林杏はあることに気づいた。
「姉さん、なぜ歩いているんですか? 父さんや母さんにぶたれてしまいます、早く戻らないと」
すると姉はきょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「やっぱり寝ぼけてるだけね。よかった。それにしても父さんと母さんにぶたれるって、ひどい夢を見てたのね。朝ごはんできてるから、居間にいらっしゃいね」
姉はそう言って林杏の頭を撫でると、部屋を去った。
林杏は口をぽかんと開きながら、姉が撫でたところに手を当てる。
(姉さんが、優しい。それに私の顔が前世のものに戻ってる。……いったいどういうこと? まったくわからない)
しかし動かなければ、状況を把握できない。林杏は今着ている服を見た。寝巻のようだが、生地は絹だ。
(私が、絹を着ている? なぜ?)
前世では何度も
(と、とりあえず居間に移動しなくては)
林杏は黄色い絹の服に着替え、部屋を出た。記憶のとおりなら林杏の部屋から居間へは2度角を曲がる必要がある。杏花のころの部屋は1番奥にある、日当たりの悪い部屋だった。しかしよく考えてみると先ほどの部屋には、日光が十分入っていた。
(もしかして、私の部屋の場所が記憶と違ってたりする?)
だが今は自身の前世の記憶を頼りにするしかない。林杏は歩を進めた。
居間の位置は変わっていないようだった。林杏はあることに気がつく。
(あのとき姉さんは『朝ごはんできてるから』と言った。つまり、私は寝過ごしたのか。……殴られるんだろうな)
しかし呼び出しに応えなくても殴られるので、居間に入るしかない。林杏は扉を開けた。
そこには姉と前世の両親が座っていた。丸い机の上には四人分の朝食がのっている。
「あ、ようやくきたわ」
「杏花、おはよう。夢見が悪かったんですって? かわいそうに」
前世の母親から心配するような言葉をかけられ、林杏は目を丸くしてしまった。一瞬嫌味を言われたのかとも思ったが、よくよく思い出すとまずは殴ってきていたので、本当に心配している可能性が高い。
「杏花、どうしたんだ? お前の好きな温かい豆乳と揚げた麩だぞ。座りなさい」
林杏に声をかける前世の父親が優しく微笑んでいる。蔑むような目でしか見てこなかった、あの守銭奴が。林杏は混乱していたが、座らないことで殴られるのも嫌だったので空いている席――姉の右隣に座った。正面にいる前世の父親は笑顔のままだ。姉にしか向けられなかった笑顔。それが林杏に対しても笑みを浮かべているとは、どういうことなのだろうか。
「それじゃあ、食べようか」
前世の父親の言葉で、朝食が開始される。前世の母親と姉は林杏のことなど気にせず、朝食を口にしている。林杏はどうすればいいか困惑してしまった。
(食べていいのか? 殴られたりしないか? っていうか食事に同席させてもらえたの、初めてだな……)
固まっていると、姉が林杏の顔を覗き込んできた。
「杏花、食べないの?」
「食べて、いいんですか?」
「……杏花、本当にどうしたの? なんだか変よ?」
姉はとても心配しているように見える。前世の母親も姉と同じ表情を浮かべて、林杏に言った。
「よっぽど怖い夢を見たのね。食後に温かいものでも飲みましょう」
今までに経験したことがない対応に、林杏はどうすればいいのかまったくわからなかった。
(夢。夢? 私がこの人たちに冷遇されていたり、
親が子どもを殴るなど、本来ならばあってはならないことだ。目の前にいる、前世の両親も姉も、穏やかな顔つきをしている。
(そうか、夢だったのか。今までが。これが現実の私の家族なんだ)
そう思うと、今までのことが少しずつ薄れていくような気がした。苦しいこともあった夢は、さっさと忘れたほうがいい。
林杏はれんげで温かい豆乳を掬い、口に含んだ。温かく、エビの風味がする。初めて食べたかのようにとてもおいしく感じ、林杏は感動した。