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5.険悪な空気

 しばらくすると、最初に穴の外へ放り投げた蛇が戻ってきた。そして林杏リンシンの手の上に、ヤマモモを吐き出した。ねっとりと蛇の唾液が絡んでいる。これでは食べられたものではない。しかし蛇はまるでなにか仕事を成し遂げたような顔をしている、ような気がした。

「あ、ありがとう。また呼んだら来てくれる?」

 蛇は頷くとその場を去った。このままにしておくわけにもいかないので、林杏は木綿のスカートの一部を破くと、ヤマモモと手を拭き包んだ。このヤマモモは非常食にすることにした。

「運び方まで指定するべきでした」

「まあ、そんなもんだ。気にすんな」

 林杏がそう言うと晧月コウゲツが慰めてくれた。

 その直後、晧月と浩然ハオランが放った蛇も戻ってきたが、食べ物を口の中に含んできたため、林杏と同じ状態となった。

「俺も他人事じゃなかったわ」

 晧月は笑いながらそう言うと、服の裾の隅で食べ物を拭く。浩然も不満そうな表情で、晧月と同じようにしていた。

 しばらく残りの蛇の帰りを待つ。蛇嫌いの仔空シアは目を固く閉じて俯いており、壁に張りついている可馨クゥシンは大きくあくびをした。

 そのとき浩然が見上げた。

「戻ってきたようだぞ」

 林杏も穴の縁を見る。そこには墨と筆を加えた蛇が1匹ずつ、そして硯を背中にのせている蛇3匹がこちらを見下ろしていた。なぜ最初の蛇のように下りてこないのだろうか。

(もしかしたら、物があるから進みにくいのかもしれない)

 そう思った林杏は蛇たちの真下に移動した。

「順番に持ってきたものを私に投げて。まずは筆から」

 すると左端にいた蛇が咥えていた筆を放り投げた。次に墨を咥えている、中央の蛇に声をかけ、投げさせた。きちんと受け止めると、最後に3匹の蛇に硯をこちらに落とすように指示を出した。蛇たちの力加減がよかったようで、きちんと林杏の手の中に落ちた。硯を割ったらどうしようかと内心どきどきしていたので、こっそり安堵の溜息を吐いた。

 晧月は服のすそを破くと、その切れ端を林杏に渡してきた。

「林杏、お前さんが食堂に手紙を書いてくれ。食堂の人と仲よかったろ」

「わかりました」

 林杏は修行で出られないので蛇に辟穀へきこくの食事7日間を5人分用意してほしいこと、その食事を蛇に預けてほしいことを記した。そして切れ端を裏返し【荷花フーファ様】と宛名を書く。

「おいで」

 林杏の呼びかけに集まってきた中から、大きすぎず小さすぎない蛇を選び、手紙をくくりつけた。

「食堂に行って、体の手紙を届けてから、食料を預かってきて」

 蛇が頷いたのを確認すると林杏は、穴の外に向かって蛇を投げた。

「いきなり蛇が行っても退治されそうな気もするが」

 浩然の言葉も、もっともだ。しかし空腹を耐えるほうが辛い。

「じゃあ浩然さんだけ食事がなくてもいいんですね。それなら皆でその分を分け合いますが」

 林杏がそう言うと浩然は「う……」と低く短い声を上げると、なにも言わなくなった。

(意外。なんか言い返してくるかと思ったけど)

 林杏に助けられ、恩でも感じているのだろうか。それとも食事がほしいからだろうか。どちらかはわからないが、気まずい空気にならなくてほっとする。

 林杏はふとあることに気づき、浩然にもう1度声をかけた。

「あの、体の調子とかどうですか? 痛いところとかはありませんか?」

 すると浩然はぽかんとしたかと思えば、深々と溜息を吐いた。

「お前も蛇に噛まれただろう。人の心配をしている場合か?」

「私は大丈夫です。今からご飯もお肉もお魚も食べられます」

「いや、へきだから米も魚もないだろう」

「例えですよ、例え。なんでわからないんですか。真面目ですか」

「林杏、犬野郎みたいなやつは真面目っていうんじゃねえ。生真面目っていうんだ」

 林杏と浩然の会話に、晧月が加わる。すると「うわーっ」と突然叫び声がした。振り返ってみると、仔空が目を大きく開いた状態で立ち上がった。

「無理です。もう無理です。こんな蛇ばっかりのところに7日間も……。しかもあなたたち、なんなんですか? のんきに話なんてして。こっちは辛くって仕方ないのに……」

 林杏はどう答えようか迷った。ふと殺気を感じ、前方を見ると晧月からだった。林杏の位置からでは顔は見えないが、おそらく笑顔ではないだろう。すると意外にも最初に口を開いたのは、いまだに壁に張りついている可馨だった。

「じゃあ、さっさとやめれば? ワタシだって浮くのが苦手だけど、こうやってなんとかしてるんだし。自分が苦手ってだけで他人にまで迷惑かけたうえに、自分の思うようにしてもらおうなんて、わがままがすぎるんじゃない?」

 おっとりとした話し方は姿を隠し、可馨は冷たい視線で仔空を刺す。

「ま、この修行やめたとして、あんたが次の段階に進むのは無理だろうけど。やめますって言ったら出してくれるんじゃない? さっさと出ていけば?」

 まずい。空気が重くなってきている。どうしたものか。広いとはいえない穴の中で、険悪な空気でいるのは、気分もよくない。しかし今、言葉の選択を間違えてしまえば、ますます気まずい空気になってしまうだろう。

 そもそもなぜこんなにも重苦しい空気になったのか。仔空の蛇嫌い、そんな仔空へのいらだち、そのほかにも原因はありそうだ。このまま重い空気が続くかと思うと、胃が痛くなる。

(待って、胃が痛くなるってことは、これから来るご飯が食べられなくなるってことでは?)

 せっかく食事がとれるかもしれないという状況で、1人だけ食べられないのは実に苦しいのではないか。

(なにがなんでもこの空気をどうにかしなくちゃっ)

 林杏は本格的に頭を使い始めた。


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