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17.平伏の意味

 朝食後の修行は空を飛ぶためのものだった。林杏リンシンは前世のころから空を飛ぶのが好きだった。道具は使わず気の流れを利用するのだが、あまりにも速度を出し過ぎて、指導者から怒られたことがある。

 空が飛べるようになった者は、修業が終わる時刻まで宙に浮いていなければいけない。空中にいるあいだはどんな風に過ごしてもいい、と指示された。

「林杏、晧月コウゲツ、下りてきなさい」

 真下から今日の指導者に大きな声で呼ばれ、林杏はゆっくりと下りる。別のところで飛び回っていた晧月もすぐに下りてきた。

天佑チンヨウさんが呼んでいます。ついて行きなさい」

 指導者が手を向けたほうを見ると、天佑が立っていた。

(なんの用だろう? |劫《ごう》の受験が認められるのにはまだ早いし)

「2人とも、こちらへ」

 晧月が先に進み、林杏もあとを追った。

 着いたのは金の像がある建物だった。天佑に座るように指示され、林杏は晧月の隣に腰を下ろす。

「今朝の喧嘩の仲裁ですが、あれは平伏の術ですね」

「は、はい」

 林杏が天佑の質問に返事をする。すると晧月が口を開いた。

「提案したのは自分です。拒否した林杏に無理を言いました」

「ああ、責めているわけではありません。安心なさい。ただ、忠告をするだけです」

 天佑の言葉に晧月は安心したようだった。

「やってみてわかったでしょうけれども、平伏の術は人間にも使えます。そう、ただ頭を下げさせるだけなら」

 林杏はその言葉の意味がよくわからなかった。しかし晧月は「たしかにそうですね」と頷いている。

「すみません、私にはよくわからず。どういう意味でしょうか?」

 素直に尋ねると、天佑はとくに表情を変えずに説明してくれた。

「平伏の術とは、術者に対しての降伏です。動物は自分より力のある者に対して、すぐに負けを認め服従します。しかし人はそうではありません。心があり、矜持がある。踏みにじられたと感じた者は、刃を向けます。復讐するために、雪辱のために」

 つまり、己の身を守るために人に対して平伏の術を使うのは、相手に恨まれるからやめろということだろう。

「なるほど。承知しました。以後人に使うのは控えます」

「わかったならばよいです。もう戻っていいですよ」

 林杏と晧月は天佑に頭を下げてから、建物をあとにした。

「そりゃそうだ。無理やり従わせたって痛い目に遭うだけだ。感情は見た目じゃわからねえからな」

「なんだが、実感が籠ってるような気がしますが」

 晧月を見る。鋭さと企み、そして少し悲しみが隠れているような笑み。

(この人、意外といろんな場面を潜り抜けているのかもしれない)

 晧月という人物の輪郭は普段はっきりしているのに、細かいところでぼやけるときがある。その原因はわからない。

(まあ、聞く必要もないか)

 林杏は口を開くことなく、晧月とともに修行へ戻った。


 空を飛べるようになると、昼食後の修行は水上を歩くものと水中に潜り続けることだった。水上を歩くのは簡単だ。足の裏に気で円盤を作り、歩けばいいのだから。といっても自身の体の外で気を形作るのはコツが必要だが。水中に潜るときも気を利用すればいい。自身の顔の周りに気の障壁を作り、呼吸ができるようにすればいいのだ。

 前世の経験のおかげで林杏は楽々と水上を歩く修行と水中に潜る修行を完了させた。それはどうやら晧月も同じらしい。

 次の修行の関係上、夕食後の修行はない。寝台の上で座って窓から月を眺めていると、扉を3度叩く音がした。

「はい」

 林杏が扉を開けると、そこには晧月が立っていた。ひょうたんとおちょこ2つを持っている。

「よう」

「晧月さん、どうしたんですか。こんな時間に」

「いや、今日は月がきれいだろ? 誰かといたくなっちまってな」

「そんなことで霊峰に行って大丈夫なんですか?」

 晧月はきょとんとしている。

「いや、仙人になったやつ皆が霊峰行ってるんだったら、絶対会うだろ。下手したら歩くたびにすれ違うんじゃね?」

「た、たしかに。じゃ、じゃあ私の夢は……?」

「夢?」

 晧月が首を傾げた。林杏は霊峰で静かに暮らしたいと思っていることを説明した。

「別に静かに暮らすくらい、できるとは思うぜ。でも俺は1人より2人以上のほうが楽しいと思うけどなあ。1人で生きていけるやつはいないし、そう思ってんならそれは思い上がりってもんだ。ってわけで、月見しようぜ。酒はないから水でだが」

「はあ。しないって言っても無駄でしょう? わかりました、行きますよ。どこでします?」

「この道院の入口ぐらいでどうだ? あそこなら階段あるから座れるし」

「じゃあ、そうしましょうか」

「ほかのやつらも誘いたいけど、修業中だろうしなあ」

「そうでしょうねえ、普通なら。あれ、ということは外で月見をしたら、あまりよくないのでは?」

「あ、たしかに」

 晧月は少し残念そうにひょうたんを見た。酒代わりの水が入っているのだろう。晧月は黙っていれば凛々しく見えるのだが、話してみると子どもっぽいところがある。11歳も年上なのに、こちらが姉のような気分になることもある。まさに今のように。

「じゃあ、私の部屋でしますか? お月見」

「お、いいのか? 悪いなあ」

「思ってないくせに」

「いや、思ってはいるぜ? 思っては。嬉しいほうが勝ってるけど」

 晧月のそんな言葉に小さく溜息を吐きながら、林杏は晧月を招き入れた。

 月の光は柔らかくおちょこの水を照らしていた。


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