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10.辟穀の悲しみ

 朝の修行は四時から始まる。林杏リンシンは着替えてから髪を梳き、団子状に結うと、昨日とは別の建物に向かった。

建物へ歩いている途中で、大きなあくびをしている晧月コウゲツと出会った。

「おー、林杏。おはよう」

「おはようございます。眠そうですね」

「逆によくこんな時間でそんなに目えぱっちりさせてられるなあ」

「うちもこれくらいの時間に作物を収穫することもあったので」

「はー、すげえなあ。俺はもう全然で……ふぁああ」

 晧月はもう1度大きくあくびをした。ちらりと見えた鋭い牙は林杏にはないものだ。

 その建物の中には金で作られた蓮の花があった。1輪だけある金の蓮の花は、厳粛さを醸し出している。

 天佑チンヨウとはまた別の指導者が入ってきた。葦毛の馬の獣人で、穏やかそうな人物に見える。

行気ぎょうき調息ちょうそくの体得、お疲れ様です。これから存思そんし《》を身につけてもらいます」

 存思は自分の体の中に神がいるのを想像しながら瞑想することだ。神がいる、いないで瞑想が高度かどうか決まるのはおかしい、という前世からの思いは変わっていない。

(そもそも体内に神がいるってなに?)

 神とはすべての生き物がどのような生を過ごすか決めることができる存在。不幸になるのも、幸福になるのも、神の采配次第。そんな神に感心され少しでもよい人生を与えらえるようにするために、人々は努力するのだ。

(神がいるかどうかは……まあ、いるんだと思うけど。じゃないと、私が劫に失敗したのに記憶がある状態で生まれ変わって、力も与えられたことについて説明がつかないから)

 与えられたということは、与えた存在が必ずいる。神の有無については大して疑いは持っていない。しかし自身の体内にいるのを想像する意味がいまいちよくわからない。

 そのとき一人の若い女性が手を挙げた。存思について説明していた馬の獣人の指導者が発言を許可する。

「内側に神がいる、と想像して瞑想することにより、どのような意味があるのでしょうか」

 その言葉の直球ぶりに林杏は少し感心した。多くの修行者は指導者に対して疑問を投げかけることや、意見を述べてよいとは考えていないからだ。言われたことはどんなことでもやる。林杏も含めてそれが修行だと思っている者が多い。

 馬の獣人の指導者は機嫌を損ねた様子もなく、答えた。

「私も同じことも思っていた時期がありましたので、あなたがそう思うのは当然でしょう。我々の体のあちこちには神々の分身が宿っています。その神々の分身が離れたり別の場所に移ってしまったりしても、体に不調が出ます。神を内側にいると想像することで、神々の分身の移動などを防ぐことができるのです」

 馬の獣人の指導者から話を聴いた若い女性の表情は、まだ少し不満そうだ。もし質問したのが林杏でも同じ顔をするだろう。馬の獣人の指導者は「しかし」と言葉を続けた。

「これはあくまで存思の基本的な内容です。ここからは私の考えになりますが……内側に神がいるのを想像するのは、少しでも神の心を理解し、仙人となったときに過ちを犯さないようにするためではないか、と思っています。人を見守るとはなにか、人の生に触れるとはなにか。そのことを頭ではなく、心から理解するために、内側に神を宿そうとするのではないか、と私は思うのです。……これでいかがですか?」

「ありがとうございます」

 若い女性は小さく頷いているので、納得したのだろう。

「それではやりましょう。始めっ」

 馬の獣人の指導者が出した合図で、一斉に存思を体得するために瞑想を始めた。

 林杏は目を閉じて、みぞおち辺りに意識を集中する。神という存在がどんな者たちかは知らないが、もしもこの体に宿ったなら。神の分身ではなく、神そのものが宿ったら。想像していると心が昂っているのに落ち着ているという、矛盾した状態になってきた。

(ああ、これが高い次元ということなのかもしれない)

 そんな風に思ったのを受け止めながら、林杏は存思を続けた。


 朝の修行を終えた林杏はにこにこしながら、晧月に話しかけた。

「朝ごはん、楽しみですね。どんな献立なんでしょうか」

「どんなって……俺たち、今朝から辟穀へきこくが始まるじゃねえか」

 晧月の言葉を聞いて、林杏は昨日の天佑の言葉を思い出した。

「そういえば、そうでしたね……」

林杏は肩を落としながら、晧月と共に食堂に向かう。

「1回しか食べられなかった……。すごくおいしかったのに……」

「どんだけ気に入ってたんだよ」

 林杏の頭の中で、もう1人の自分が『いいから黙って普通の食事だって言っちゃいなよ』と囁いてきたことは、晧月に言わなかった。

 なんとか誘惑に勝ち、食堂の窓口で「辟です」と言うと、渡されたのは乾燥させた肉と干した果物だった。

「ここは鹿肉を使っているんだとよ。鹿肉はクセがないから食べやすくていいぞ。……元気出せよ、仙人になる為だろ?」

「わかってます……ぐぬう」

「めちゃくちゃ悔しそうじゃねえか」

 晧月に苦笑いされながら、林杏は干した鹿肉を齧った。干した鹿肉はたしかにうま味が強くおいしかったが、昨日の夜の食事に比べればずいぶんと淡泊だった。


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