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9.修行開始

 林杏リンシンは真っ暗な視界から、机や椅子に座った晧月コウゲツが映ったことにより、ようやく寝ていたことに気がついた。晧月も机に頬杖をついた状態で眠っている。彼もやはり疲れていたのだろう。

 窓の外を見ると、空が茜色に染まっていた。

 そのときカーン、カーンと鐘の音が聞こえた。鐘が鳴れば食事だ、と天佑が言っていたことを思い出す。音に驚いたのか、晧月は顔面を机にぶつけていた。

「ふあ? なんだなんだ?」

「多分食事の時間なんですよ。すみません、晧月さんがいるのに寝てしまって」

「別にいいさ。よーし、飯行こう」

 晧月がおおらかな人物でよかった、と林杏は心底思った。なかには『年長者がいるのに、相手をしないとはなにごとだ』と怒る者もいる。

 林杏は晧月と共に食堂に向かった。


 食堂には修行者たちが集まって、食事が提供される窓口に並んでいた。どうすればいいかわからず、とりあえず並ぼうかと考えていると、晧月が列の最後尾にいる男性に声をかけた。

「あの、今日ここに来たんですが、食事をもらうにはこの列に並べばいいですか?」

「ああ、そうだ。今日来たばかりなら、なにも言わなくていいよ」

「どうも。ありがとうございます」

 晧月に手招きされ、林杏は彼の後ろに並んだ。

「ありがとうございます」

「いえいえ。誰かに声かけるのは平気だからよ」

 しばらく待つと、晧月の前の男性の順番になった。

へきです」

 すると対応している兎獣人の女性が、厨房内に向かって「辟ねー」と大きな声で告げていた。男性は横へ移動した。

(辟……|辟穀《へきこく》のことか)

 林杏は一人で納得していた。

 辟穀とは修行の一環で、五穀—米、麦、粟、きび、豆—を絶つことだ。完全に体の中へ吸収されると考えられているものだけを食すのだ。

(体に吸収されるとか、されないとか、未だに意味がわからないけど。同じ食べ物なんだし)

 そんな風に思っていると、林杏の順番がやってきた。

「あら、あなたも新人さんね?」

 兎獣人の女性の言葉に頷く。

「よろしくおねがいします」

「ふふ、よろしくね。じゃあ普通のものね」

 兎獣人の女性は厨房内に「普通ー」と叫んで伝えた。

「それじゃあ、この先のところでお盆を持って、少し待っててね」

「はい。ありがとうございます」

「あら、ご丁寧に。修行頑張ってね」

 林杏は小さく頭を下げてから、横へ移動した。木でできた長方形のお盆を持って行くと、【受け渡し】と書かれた看板の真下で待った。すると温かく白い汁と五穀米、鶏肉と根菜を煮たものが渡された。

 座れそうな場所を探していると、晧月がこちらに向かって手を振っていた。林杏は晧月の隣に座る。

「うまそうだな」

「そうですね。修行と厨房番を一緒にするのは大変ですから、あの人たちはすごいですね」

「ん? 林杏の前世のとこはそうだったのか? あの人たち多分厨房専門で、俺たちみたいに修行はしてないと思うぜ、あの口ぶりだと。俺の前世の道院もそうだったし」

 そういえば「修行頑張ってね」と言われたか。たしかに修行もしているなら「一緒に頑張ろうね」などの言葉のほうが自然だ。

「なるほど」

 意外にも鋭い晧月の観察眼に、林杏は少し驚いた。

 食事を口に運ぶ。白い汁は鶏がらで作ったもので、扇のような形に切られた人参が入っていた。塩味が効いていておいしい。五穀米はひえや粟に比べ、ずっと食べやすい。鶏肉と根菜の煮物の根菜は軟らかく、味がしっかりと染みていた。

「おいしいっ。どれもおいしいっ」

 母親の料理ももちろんおいしい。しかし薄味で素材の味を生かした母親の料理とは違い、ここのものは味つけがしっかりとしている。自然と口角が上がるおいしさを楽しんでいると、晧月が小さく肩を突いてきた。

「煮物の器貸せ」

 晧月は器を受けとると、自分の煮物を林杏のものへ手早く箸で移した。

「ん。俺の分も食べな」

「え、でもそれだと晧月さんの分が減っちゃいます」

「いいんだよ、ほれ」

 晧月の言葉に甘えることにし、林杏は礼を言って煮物が増えた器を返してもらった。再び箸で煮物を口に運ぶ。鶏の脂を染みこませた根菜も、ほぐれるほどまで煮こまれた鶏肉も心を明るくさせる。

 ふと視線を感じ首だけ隣を向くと、晧月が微笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

「な、なんですか」

「いんや。そんだけうまそうに食べてると、こっちもいい気分になるなあ、と」

「なんですか、それ」

 晧月がいつまでもこちらを見ているが、林杏は気にしないことにした。おいしいものを他人の一言を気にして楽しめないのは損だ。

 食事を終えると晧月が「天佑チンヨウさんからの伝言だ」と、このあと参加する修行が行われる場所を教えてくれた。あの金の像がある建物で行うらしい。2人は自室に戻らず、到着したときに案内された建物へ向かった。

 すでに20人以上の修行者が、人間に獣人、男女性関係なく集まっていた。

 しばらくすると天佑が入ってきた。話し声で満ちていた建物内が途端に静まった。

「それでは行気ぎょうきから始めましょう。始め」

 全員立ったまま、行気を始めた。

 行気は全身に気を巡らせ、循環させるための呼吸法だ。口から古い気を出し、鼻から新しい気を吸い込む。天佑は今日来たばかりの林杏と晧月に対してなにも説明をしなかった。

(どれだけ覚えているか、試してるな。これは)

 林杏は前世の記憶を掘り起こして、行気を始めた。まずは古い気を吐く。ゆっくり、細く、長く。吐ききってから空気と一緒に気を吸い込む。

気はどんなものにも必要だ。生き物だけでなく植物にもだ。空気を取り入れれば、体内で気という形の活動力になる。1度気という動力源になると、意識して吐き出さなければ体を巡り続ける。巡り続けた気は古くなり、気の道筋を詰まらせてしまう。気が詰まるとその場所が病となるのだ。

 吐いて吸って、と繰り返していくと、体の力が少しずつ抜けていく。

「いいですね、落ち着いています。そのまま気を巡らせるように」

 林杏の前に立って観察していた天佑が言った。ここで喜んではいけない。感情が動くということは、気の動きも変わるということ。前世の道院では内心喜んだ途端、「乱れている。やり直し」と言われたことがあった。天佑も同じように反応を確認している可能性がある。林杏は感情を抑え、行気を続けた。

 呼吸に集中し、時間の感覚が溶けるようになくなってきた頃、天佑が「はい、やめっ」と合図を出した。

「次は調息ちょうそくです。始めっ」

 ほとんどの修行者がほぼ同時に床に腰を下ろした。

 調息は行気とはまた違った呼吸法だ。姿勢を正して座り、心と気だけでなく体も落ち着かせる。この調息がうまくできれば、仙人となったあとも寿命が延びると前世で教わった。

 呼吸の仕方は個人に任されている。立っているときは脚がだるくなってくるが、座っていると尻がどんどん痛くなってくるので、前世の最初の頃は集中できずによく注意されていたものだ。道院の建物内の床は木製なので硬いのだ。

 鼻から息を吸い、全身に巡っていくのを想像する。ゆっくり静かに息を吐く。一気に吐くと体が落ち着かないので、林杏は長く吐くことにしている。

 ゆっくり呼吸していると、感覚が研ぎ澄まされていくような感覚を味わう。この心地いいような、気が引き締まるような状態が、林杏は嫌いではなかった。

 しばらく久しぶりに味わう感覚を楽しんでいると、パンッと手を叩く音がした。

「はい、やめ。もう1度行気をします。始めっ」

 再び全員が立ち上がり、行気を始めた。

 その日は休憩を挟むことなく3時間続けて、行気と調息を繰り返した。

 修行が終わると、林杏と晧月、そのほか数名が天佑に呼ばれた。

「ここにいる全員、明日の朝食から辟穀を始めるように」

 天佑から辟穀の説明がされると、何人かの顔を曇らせる。干し肉と乾燥させた果物だけで1日を乗りきるのだ、不安なのも当然である。

(あのおいしいごはんが早くも食べれなくなるとは。ぐぬう)

 林杏は表情に出さないようにしながらも、悔しがった


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