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5.さようなら、父さん母さん

 熊を平伏させたその日の夜。林杏リンシンは今の両親に声をかけた。座って話をする。

「父さん、母さん。昼間のあれをご覧になったでしょう。私には獣たちを平伏させる力があります。とても温かくて優しい時間をくださったお2人に、なにか恩返しがしたくて、密かに山に入り、獣たちへ畑を荒らさないように言い聞かせてきました」

「そうか……。だから15年以上この村は作物に恵まれたんだね」

 今の父親は納得したように頷いた。

「力のことを知られるのに対して、なにも罰はありません。しかし……父さんや母さんが、お金にどんどん囚われていくのではないか、と思うとすごく恐ろしいんです。なので父さん、母さん……私を仙人の修行に行かせてください」

 林杏は静かに頭を下げた。今の父親に顔を上げるように言われ、そのとおりにする。次に口を開いたのは今の母親だった。

「あなたが大きくなって、気がついたら姿を消していることが増えて。……いつか、本当にいなくなってしまうような予感がしていたの」

 今の母親は寂しそうに微笑んだ。いつか会えなくなるかもしれない、という思いを抱きながらも、愛情を注いでいてくれていた。林杏はその事実に胸がいっぱいになった。

「仙人の修行に行くのは構わないが、いつ頃出発するつもりなんだい?」

「……できるだけ早く、と思っています」

 今の父親の質問に答える。そんな林杏に今の母親が言った。

「せめて1日一緒に過ごしたいわ。だからどうか明日に行くなんてことは言わないでしょうだいな」

「母さんの言うとおりだ。せめて明後日以降におし」

 林杏もできれば両親と離れたくない。せめて思い出と共に出発したい。そんな思いがあるためか、気がつくと首を縦に振っていた。

「それじゃあ、いろいろと準備しないといけないわね。牛車に乗っていくんでしょう?」

「でも、牛車だと余分にお金がかかるから、歩いて行こうかなって」

「おいおい、ここから道院まで歩いたら一週間以上かかるよ。女の子が野宿なんて危ない。ちゃんと牛車で行きなさい。お金は用意できるから」

「そうよ、そうしなさい」

 両親の有無を言わさない雰囲気に、林杏は頷かざるを得なかった。

 話を終え、林杏は汗を拭きに行った。濡らした麻の布でゆっくり体をこする。

(こんなに温かい家から出ていかなくちゃいけないなんて……。でも、前の両親あのひとたちみたいになってしまってからでは遅い。その前に……離れなくちゃ)

 目を閉じれば今でも前世の両親の表情が浮かんでくる。姉を利用して金銭を巻き上げ、私腹を肥やしていた。弱い者を見下し、蔑んでいたあの2人はと、今の両親が同じ人間だということに驚きである。

 幼いころは15歳としての意識があったのであまり素直に甘えられず、今は大人になったため、林杏は膝枕をしてもらったり抱きついたりした覚えがあまりない。

(あと1日だけだから、父さんと母さんにちょっと甘えてみようかな)

 体を拭き終わった林杏は、今の両親のもとに戻った。

 次の日、いつものように早朝に起きると、すでに今の父親は畑仕事を始めていた。今の母親は台所に立って手を動かしていた。

「おはよう母さん」

「おはよう、林杏。朝ごはんにするわね」

「いいよ、母さんも畑行くでしょ?」

「ふふ、今日はお父さんと入れ替わりでやるからいいの。そうすれば畑のこともできて、林杏とも一緒にいられるでしょ。だから今日はここでたくさんおしゃべりとかしましょ」

 じわじわと嬉しさが湧いてきた林杏は、小さく頷いた。

 今の母親が朝食を用意してくれて、一緒に食べる。

「思い出すわ。あなたが初めて離乳食食べたとき。すっごく目を輝かせていたのよ」

 母乳に飽きてきたので、白身魚を柔らかく炊いたものを差し出された瞬間に食いついた覚えがある。今食べると薄味すぎるだろうが、当時はおいしくてとても喜んだものだ。

「あのときの魚ってどうやって手に入れたの?」

「お父さんが川で釣ってきたのよ。ここからちょっと行ったところに川があるでしょ? あそこよ」

「へえ。父さん、釣りできるんだ」

「そりゃそうよ。この村の男の子は釣りして遊ぶのがほとんどなんだから」

 思い返してみれば、この村の男児たちは釣り竿を持って移動していたような気がする。どうやら星宇シンユーのように山に籠るのが珍しいようだ。

「そうだ、星宇くんが来たら、ちゃんと仙人になること言っておくのよ」

「あ、本当だ」

 出会った頃に比べると星宇も喋るようになったが、林杏と今の両親以外と話すときはまだ緊張するらしく、うまく返事ができないときがある。彼が喋ったときの文字を見えるようにすれば、さぞかし角ばっているだろう。

「ねえ、母さん。どうして私を愛してくれたの?」

 林杏にとって、ずっと疑問だった。すると今の母親は目をぱちくりさせたあと、笑みを浮かべた。

「そりゃあ、ずっと会いたかったもの。当然じゃない」

「会いたかった……?」

「そうよ。あなたにずーっと会いたくて、いくつも願掛けしたんだから」

 自分に会いたいと願ってくれる人が、生まれてきてほしいと思ってくれる人がいた。

「ちょっと、どうしたの? 林杏。泣いちゃったりなんかして」

 今の母親にそう言われ、林杏は初めて自分が涙を流していることに気がついた。

(私、生まれてきてよかったんだ。私でも愛されていいんだ)

 1度流れ始めた涙は止まらない。すると温もりを感じた。どうやら今の母親が抱きしめてくれたようだ。

「だーいじょーぶ、だーいじょうぶだからねー」

 その言い方は赤ん坊の頃よく聞いた言葉だった。懐かしくて、温かくて、林杏はそっと目を閉じた。


 天井が視界に入る。どうやら今の母親に抱かれたまま、眠ってしまったようだ。

(まるで子どもじゃない、母親にぎゅってされて寝るなんて)

 ゆっくりと体を起こすと、そこには誰もいない。もしかしたら、林杏が寝ている間に畑仕事を少しでも進めようと、母も外に出たのかもしれない。

 林杏は扉を開け、畑のほうに向かった。すると今の両親と星宇が畑仕事をしていた。

「父さん、母さん、星宇」

「あら、起きたのね」

 今の母親が林杏にそう言うとの同時に、星宇がこちらにやってきた。

「星宇」

「おじさんとおばさんから聞いた。明日行くって」

「うん」

「昨日の、熊の件のせい?」

「……せい、というか、きっかけではある。私は父さんと母さんには、お金で変わってほしくないから」

「おじさんとおばさんが、そんなもので変わるもんかっ。もっとおじさんとおばさんを信じろよ。林杏、仙人になるなんて……」

 林杏は自身の唇に人差指を当てた。

「星宇、仙人になることを否定しちゃだめ。村は狭くて、いつ誰が聞いてるかわからないから」

 仙人を目指すこと、仙人になるのはめでたいこと。めでたいことを否定する者は、冷たい目で見られるだけでなく批難されることもある。ただでさえ星宇の家は村の者たちと交流が少ない。星宇の言葉が他の者に聞かれてしまえば、あっという間に居心地が悪くなるだろう。

「でも……」

 星宇も承知で言ってくれたようだ。鳥好きで人と接してこなかったであろう少年が、相手を思うことができる青年にまでなった。林杏はそっと星宇の頭を撫でる。

「父さんと母さんのこと、お願いね。それから鳥に夢中になりすぎて、足滑らせないように」

「……子どもの頃の話だし」

 小さく唇を尖らせる星宇の姿は、幼い頃と変わらない。

 星宇は少々人見知りなところはあるが、穏やかで人の話にしっかりと耳を傾けられる。きっといい女性と結婚できるだろう。

「元気でね、星宇」

「ん。仙人になれなかったら、いつでも帰ってきていいから」

 前世で1度失敗している林杏からすれば、突き刺さる言葉だが気にしないことにした。林杏が前世のことまで覚えているとは、誰も知らないのだから。

「じゃあ、仕事に戻る」

「うん、ありがと」

 星宇は作物の収穫に戻った。

「次は父さんが一緒に過ごす番だからね。林杏、どんなことをして過ごしたい?」

「なんでも。父さんと一緒ならなんでもいい」

「嬉しいことを言ってくれるなあ。とりあえず家に戻るか」

 林杏と今の父親は横に並んで家に帰った。

(私の本当の親はきっと、この人たち。私を愛してくれるのは、この人たち。前世の両親(あのひとたち)はもう思い出さなくってもいい)

 林杏は父親の手を握った。父親は「おやおやー」と言いながらも握り返してくれた。久しぶりの父親の手はずいぶんと小さくなった気がした。

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