ウィシャーリエには、何故父である聖王の側近のキリルが己に心からの言葉を話してくれるのか分からなかった。
彼女の瞳をジッと見ても答えは返ってこない。何か話そうとしても、言葉が喉の奥で詰まったように出てこず、鼻の奥がジンと痛む。
目頭が熱かった。目の前が潤み、嗚咽が漏れる。琥珀色の瞳から溢れ出した涙が―――止まらなかった。
「姫、シャーリエという偽りの名でサレナ様と語り合うも良し。ウィシャーリエ王女として語り合うも良し。全ては貴女の選択次第です。サレナ様はこの世の悪の一部をご自身の目で見て、悪の放つ意を肌で感じ取った御方。そして、上級魔族と渡り合い、彼女を守る騎士と共に戦った英雄です」
ウィシャーリエの手から自身の手を引いたキリルはそっと抱き締め頭を撫でる。フード越しではあるが、少女の頭は成人女性のキリルからしたら小さいものと感じた。しかし、小さいと言ってもウィシャーリエの中には彼女自身が気づかぬ可能性と力が眠っていることも知っている。
「……キリル」
「何でしょう、姫」
「私は、どうしたらいいのでしょう……」
「それを決めるのは私ではありません。ウィシャーリエ王女御自身です」
「私はお兄様達のように強くもない。お父様のように全てを破壊する覚悟も無い。私にあるものは迷って、泣いて、嘆いて、自分自身の殻に閉じこもるだけなのです」
「……違いますよ、姫」
「え?」
「あの時、兵に追われながらも黒鉄の騎士様とサレナ様を追う貴女には確かな意思があった。城の者と兵がその時の意思を蛮勇と称しても、私は勇気と称しましょう。人が歩む為には勇気が必要なのです……己の意思と選択を示す為、生き続ける上で勇気は何物にも勝る渇望なのでしょう」
「勇気……」
「そう、勇気です。貴方自身が見失い、失くしてしまった欠片はその手にあります。手を握り締めたままでは勇気は見えず、手を開いても勇気という不可視の意思は見えないまま。欠片の本体は姫の御心に存在し、今も胎動しているのです」
勇気は心にあり、心は身体にある。勇気という曖昧不完全なものを見つける為にはその者自身が己の内を知らねばならない。
ウィシャーリエ自身の異能により彼女は他者の心の声を聞くことが出来る。だが、それは他者の声を聞くだけで、自分の声は聞けないのだ。否、そもそも自分の心の声を聞く事が出来る者は存在しない。
人は常に迷い、分岐路に立っては足踏みをして考え抜いた末にようやく進む。決断を行う際に必要なもの、それは決意と覚悟、そして勇気なのだろう。
「私は、自分の勇気に自信が持てません」
「ええ」
「けど、私は、私自身の可能性と力を、貴女の言葉を信じたい」
「ええ」
「ならば、私は王族の一人でも、シャーリエでもないウィシャーリエとしてサレナと会おうと思います。彼女の心の声を聞く事が出来なくとも、彼女を守る騎士の濁流となって押し寄せる声を払い、接しようと思います。キリル、その後に私からお願いがあります」
「なんなりと」
「エルクゥスお兄様とアクィナスお兄様、そしてお父様と話がしたいのです。自分の口で、心の声を聞かずに話をしたい。兄様達とお父様のお時間を貰えるように動いて下さりませんか?」
「ウィシャーリエ王女直々の願いならばこのキリル、その無理難題をやり通して見せましょう。姫様、最後に一つ」
「何でしょう?」
「ご武運を」
はい、と。笑顔を浮かべて宿へ入って行くウィシャーリエを眺めたキリルは大きく息を吐く。
「……柄にもないわ。私が勇気と意思を語るなんて。けど、あの子になら私の全てを投げ出せる。私の奇跡と未来を見出せる。……そうよね、エリン」
夕と夜が曖昧となった境界線上の空を見上げ、勇者の名を呟いたキリルは己の罪を懺悔するように瞼を閉じた。
……
………
…………
……………
……………
…………
………
……
「お待たせしましたサレナ! それと、先に謝っておきます! 申し訳ありませんでした!」
サレナとアインの部屋へ飛び込んできたウィシャーリエは息を切らしながら頭を下げ、何が何だか分からないと言った様子のサレナへ謝罪の言葉を述べる。
「あの、私の本当の名前はシャーリエではなく、ウィシャーリエと申します! ウィシャーリエという名はご存じでしょうか!?」
「ウィシャーリエ? アインは知っていますか?」
「知らんな」
「私も知りません……えっと、シャーリエの本当の名前がウィシャーリエで、名を偽っていた事に対する謝罪をしたわけですね?」
「は、はい!」
腕を組んで椅子に座るアインの真紅の眼光がウィシャーリエを射抜く。彼女は濁流となって押し寄せる激情の声に思わず身構えたが、不思議と声はアインから漏れる事無く何かに堰き止められているかのように静寂を保っていた。
「申し訳ありません、私は世間に疎いものですからウィシャーリエという名が何を意味するのか分かりません。けど」
「けど?」
「シャーリエもウィシャーリエもあなた自身の名であるのでしょう。ウィシャーリエ、真実の名は本当のあなたを形作る礎となる名でありますが、シャーリエという名も私が初めてあなたという人を知った名でもあります。二つの名に意味があり、あなたを証明するものです。謝罪する程のものではありません」
二つの名があると言っても、シャーリエとウィシャーリエという名が少女のものであることに変わりは無い。
「私はシャーリエとウィシャーリエ、この二つの名の内どちらであなたを呼べばいいのでしょう? あなたはどちらの名で呼ばれたいのでしょう?」
「……サレナ、私の名はウィシャーリエ。貴女にはそう呼んで欲しい」
「分かりました。ではウィシャーリエ、私はあなたに案内を頼む為に呼び出したのですが、大聖堂まで案内してくれますか? その、用があったり時間が無ければ明日でもいいのですが……」
サレナはウィシャーリエという王女の名を聞いても自分自身の態度を変えない。いや、そもそも彼女はウィシャーリエが聖王の娘であり、王女である事実を知らないのだ。
知らぬは罪と云う者が居るだろう。無知は悪だとのたばう者も居るだろう。だが、王女という身分よりも、ウィシャーリエとして自分を見ている少女の黄金の瞳に悪意や罪悪の意は無い。
「行きましょう」
「いいのですか?」
「行きましょう! 大聖堂は一定の身分か聖堂内の組織の一員しか自由に出入りできませんが、私が自らの名を話せば入れてくれるでしょう。サレナさんと……」
アインの真紅の瞳に視線を寄せ、身を僅かに強張らせたウィシャーリエは「アインさんも!」と、勇気を振り絞って剣士の名を呼んだ。
「……ウィシャーリエだったか? 貴様の名は」
「は、はい!」
「……貴様からはサレナと同じ雰囲気を感じる。匂い? 違う……瞳? 否……その内に仄かに感じる淡い力か? 貴様は肉塊であった筈なのに、今は一端な人に見える。いや、人に成りかけている肉型か?」
「え? え?」
「シャーリエと名乗っていた貴様はただの肉塊だと思っていた。だが、ウィシャーリエという名を名乗った貴様はその心に一握りの光を灯したと見える。足りないのだ、意思と誓いが。貴様の光は未だ空虚なる箱なのだろう。故に、俺には未だ貴様は肉を纏う人形に見える」
そう言ったアインは剣を背負うとサレナとウィシャーリエよりも先に部屋を出る。その背中を見つめていたサレナは「アインはああいう人ですから」と微笑を湛えながらウィシャーリエへ手を差し伸べ、手を繋ぐと歩き出すのだった。