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無窮の肖像 ②

 ウィシャーリエの琥珀色の瞳に四階建ての聖都で一番大きな宿が映る。


 「ではシャーリエ、サレナ様のことは宜しくお願いしますね」


 「はい、任せて下さい。けど」


 「けど?」


 「キリルからは私が王女ウィシャーリエであることを、サレナとアインさんには言わないで下さいね? その、なんと言いますか、えっと」


 「……姫、私は貴女がとても心配です」


 「何故ですか?」


 「貴女は人の心を読む異能がある。その異能は貴女の足枷となり、御心を内に縛り付ける鎖となっています。サレナ……あの少女が何故自分と姫を呼び捨てにしようとしたのかお分かりですか?」


 「……いいえ、彼女には私の異能は通じませんでしたから」


 「……、他人の心の内は常人ならば知り得ることは出来ません。ですが、貴女はご自身の異能の力により知ってしまう。他者が何を考え、何を思っているのか分かることは恐ろしくもあり、救いでありましょう。姫、異能に頼りご自身の言と口をお忘れになってはなりません」


 少女の前にしゃがみ込んだキリルは彼女の瞳を見つめ、無表情を貫きつつ口角をほんの僅かに上げる。


 「人は本来言葉で意思疎通を図るです。心で会話する者など居りませんし、数々の嘘と真実を織り交ぜながら理解を深めようとする生物が人なのです。心の内を知り、本音で語り合う為に口は存在する。ウィシャーリエ王女、サレナ様は貴女と本当の意味で同じとして理解したいと思っているのかも知れません。だから、貴女も同じ人として言葉を交わして下さい」


 キリルの心からの言葉にウィシャーリエの異能は通じない。本気で言っているから心の声を聞く異能は無意味と化す。


 キリルという女性は心を隠す術に長けていた。無表情の仮面は何があっても外れることは無く、効率と合理性を追求して動く様は敏腕な商人を思わせる節がある。採算が合わないと感じた作戦や命令が下されたならば、自己流の方法で利益を追求して負債を減らす。実現不可能なものであれば王の名を出してでも命令や作戦を取り消させる鋼の美女。


 その心は凍っているのかと思っていた。心が凍っているから内なる声を聞くことが出来ないと、そう考えていた。だが、キリルはウィシャーリエの異能を深く理解し、何故彼女が人の前では恐れと怯えの心を持っていたのか知っていた。


 「姫、貴女の未来を決めるのは他の誰でもない貴女自身です。恐れ、怖がり、怯えたまま安全な鳥籠で暮らす日々でいいのであれば、私は必要以上に言葉を話しません。採算が取れない行動を嫌っているのはお分かりですね? ウィシャーリエ王女には未来と希望を掴み取る力がある。私の言葉は姫への先行投資だと思っていただいても構いません」


 自分の未来と意思を決めるのは他者ではない、己なのだ。己だけが自らの足を進ませ、道を往くことが出来る。


 他者が出来るのは背中を押したり、立ちはだかる困難や苦難を乗り越える手助けをするだけ。結局のところ、人は自分自身の力で歩み続けなければならない。


 ウィシャーリエは少女であるが、若くとも老いていようとも人は人。一人の人間として自分自身で道を歩まねばならない時が来る。もし彼女が歩み出す時、周りの人間と言葉を交える術を知らず、心の声ばかりを聞いて立ち止まり続けぬようキリルは忠告とも先行投資とも取れる言葉を伝えるのだ。


 「……どうして」


 「……何でしょう」


 「どうして貴女は私にそのような言葉を話してくれるのですか? 私は貴女に助けられるようなことをしていない。私はただ鳥籠の中で嘆き、無くだけの子供なのに」


 「姫、貴女は覚えていないでしょうが、私は一度貴女に命を救われているのです。死の寒さと四肢に力が入らなくなる恐怖の中で、姫は私の命を救って下さりました。その時から、私の身と命は姫だけの為にあると誓ったのです」


 「私は、貴女を救ったことを覚えていません……」


 「覚えていなくても当然でしょう。私が救われた時、姫は今よりも小さな子供でしたからね。だが、その小さな子供は精一杯の勇気を振り絞り、私という存在を闇の中から救い出してくれた。……今でも覚えています。姫の小さな手が私の手に触れ、心の痛みを取り除いてくれた瞬間を」


 ウィシャーリエが覚えていなくとも、キリルの脳に深く刻み込まれた記憶があの小さな手から伝わった温もりを想起する。


 仄暗い穴の中、血と土に塗れた己を覗く琥珀色の瞳の少女。小さくか弱い存在である少女は瀕死の己を見た瞬間に恐怖の色を浮かべ、尻もちを着いた。


 殺すか殺されるかの二択。当然、世界の制約に従えば少女は直ぐ様武器を取り、己に短剣の刃を向けるだろう。傷を負い、瀕死の状態であろうと己だって少女を殺す気でいた。だが、少女―――ウィシャーリエは何か決心した様子で頷くと、涙目になりながらもポーチの中から魔力回復薬を穴の中の己に手渡した。


 何故かと問いたかった。何故血だらけになり、今にも死の闇に飲み込まれる己を助けようとすると問い質したかった。だが、出てくる言葉は掠れた空気のような音と共に搔き消え、言語にするにも難しい。困惑と疑惑の色に染まり、疑い続ける心の声を聞いたウィシャーリエは言った。ウィシャーリエ自身でも忘れてしまった言葉を、投げ掛けた。



 どうして……生きていたいと、助かりたいと言っているのに、手を取らないの?



 「……姫、私は貴女に救われた。死の寸前で。あの瞬間、姫様の言葉を聞いた時より私の意思と誓約は貴女様に捧げられ、私はに成り果ててしまった。ですが、私が最弱と成り、姫に意思と誓約を捧げたのは私自身の選択です。後悔はありません、するつもりもありません。いいですか? 姫は


 キリルはウィシャーリエの手を取り、琥珀色の瞳を覗き込む。


 「ただ強い者だけが生きる世界に生は芽生えません。弱い者だけが生きる世界では生命の連続性と強さへの願望と渇望は芽生えません。ですが、真に強い者だけが生きる世界は争いと死に満ちるでしょう。均整と均衡……強き者、弱き者、真に強き者。全員が生きられる世界が必要であり、誰でも生きられる世界が真の平和なのです」


 この少女は弱い存在だ。弱さと強さの間で迷い続け、足踏みを繰り返しながら泣き喚く。泣けば泣く程に理想が遠のき、自分自身の役目と強さを見失い続ける。真の輝きに目を背け、黄金の影に劣等感を抱き続けるウィシャーリエにキリルは語る。


 「一つの光では世界は照らせない。一つの光だけが照らす世界は特定の誰かだけを照らす暗闇の世界なのです。真に愛し、真に世界を想い、真に人と生命へ慈愛を向ける者がこの苦難と苦痛を強いる世界を変えるべきなのです。優しさだけでは人は救えない、覚悟だけでは世界は変えられない、激情だけでは生命を守れない。それだけは決して忘れないで下さい」





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