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無窮の肖像 ①

 何時の日か、己の記憶が戻る時が来るのだろうか。


 その時、自分が自分で居られるのか分からない。記憶を取り戻した時、過去の自分の存在が勝るのか、今の自分の存在が勝るのか。アインは甲冑を身に着けたまま椅子に深く腰掛け、思考を巡らせる。


 「アイン、大丈夫ですか?」


 サレナ、自分の命よりも大切な存在。少女との旅の記憶は常に色鮮やかに彩られ、彼女と交わした言葉の一つ一つまで思い出すことが出来る。今もこうしてアインの隣に座り、心配そうな面持ちで彼の真紅の瞳を上目遣いで覗き込んでいた。


 「サレナ」


 「何ですか?」


 「俺は記憶が無い。思い出した記憶も断片的なもので、俺が何であるかを思い出す事が出来ないでいる。俺は、記憶を取り戻した時に俺で居られるのだろうか」


 剣を握る手は血に濡れる。誰かに触れる手は温もりを知る。誰かを求める心は常に渇いている。己の内に渦巻く激情が向かう先は剣先にあり、悲嘆と慟哭が向かう先は己が内心にある。内外に飛び出し反発しあう感情は何を求め、何を得たいのだろう。何故こうも矛盾し、破綻している。


 馬車の中で見た幻覚とも幻視とも言えない白昼夢。過去に一度も眠ることさえ無かった己が不用心にも眠りこけ、その中で見た異貌の腕は何だったのだろう。鼓膜を震わせた声は誰のもので、甲冑の下にあった生身の腕は何故異なる種族の腕を持っていたのだろう。


 聖都に訪れてから何かに呼ばれているような気がした。それは聖王でも無く、サレナでも無く、クオンでもない。己を呼ぶ気配を感じるのは聖都の中心に位置する黄金と白銀の大聖堂からだった。


 「今の俺の記憶が勝るのか、過去の俺の記憶が勝るのか。経験や時間の累積であれば過去の俺が勝るのだろう。今俺が振るう剣だって、記憶に関係の無い知識だって、過去の俺が蓄積してきたものだ」


 戦闘にて振るわれる剣技は過去の己の遺産。頭に浮かび上がる言葉も過去の己が聞き覚えたもの。現在進行形の己が積み上げてきたものは、剣を以て斬り捨てた屍の山と甲冑を染める鮮血。他には何も無い。何も得ていない。


 「強いだけでは生きられない。強くあろうとも生きられない。断罪者が言っていた通りだ、俺は強いだけであって弱いんだ。記憶を失い、過去を失った俺が望むものは何なのだろう。強さを求めているのだろうか、殺戮を求めているのだろうか、他者を求めているのだろうか……。俺は何か大切なものを、己の芯となる部分を失っている」


 人は自分に無い何かを補完するために愛を知る。誰かを支え、理解したいから愛を求めて手を伸ばす。殺意、憤怒、憎悪、己の中で暴れ狂う激情は何を思ってサレナへ手を伸ばしたのだろう。


 記憶の断片で見た少女に似ているから? 


 同じ過ちを繰り返さない為に?


 安らぎと幸福を願いたいから?


 剣を振るい、敵を刻みながらも大切な者を守るという意味を知りたいから?


 「アイン」


 「何だ?」


 「あなたはやっぱりアインなんですよ」


 「どういうことだ?」


 サレナがアインの肩に身を預け、瞼を閉じる。長いまつ毛が丸テーブルの上に置かれたランプの炎を反射し、朝日のように煌めいた。


 「私はアインの過去を知りません。けど、あなたの過去を知りたいとも思っています。旅の中でアインが取り戻した記憶は断片的なものなのかもしれない。私は、今のアインが好きなんです。あなたが内でどれだけ激情を焚べようと、悲嘆と不幸を感じていようと、それが今のあなたを形作る礎となっている」


 何時しか剣士は己の記憶を取り戻す。そう感じずにはいられない。戦いと旅は確実に彼の戦士としての部分を補強し、完成度を高めている。


 アインの激情が人や剣に向けられていることは明白なる事実なのだ。怒り、憎み、殺意を燃やす。だが、その中に人としての優しさが見え隠れしていることもサレナは知っている。


 「迷ってもいいのです。迷いながらも次に繋げるのが人として生きる者の宿命です。私はずっと傍に居ます。アインが記憶を取り戻し、私を忘れてしまっても決して離れません。例え星が大地を焼き、人々が生きるには過酷な世界になろうとも、私はアインと共に在り続けます。だから―――」


 黒鉄の装甲に包まれた剣士の手に自信の手を重ね、そっと握ったサレナは瞼を開き、アインと視線を交わし。


 「恐れないで。恐れず進み続ける勇気を持って欲しい。アインの道はあなた自身の手で開かなければいけないのだから」


 「……サレナ」


 己を信じてくれる少女に何を返せるのだろう。何も無い己を何故少女は此処まで愛してくれるのだろう。分からない。分からないから、知りたいから、共に在る。


 命はいずれ燃え尽き果てる。命が消えた肉体は月日と共に風化し、土へ帰る。人という生命が残した足跡は後に続く生命の道と成り、絶えず続く。抱いた意思を他者へ託し、抱いた願いと望みは別の誰かが引き継ぐ。争いが絶えない世界でも、新たな命は循環の円環を巡り、螺旋となって未来を作る。


 恐れていては始まらない。迷っていても足は動かない。アインは剣を背負い、立ち上がると夕日に濡れる聖都を見据える。


 行かねばならないと、意思が叫んだような気がした。知らねばならないと己の内に存在する何かが決意する。彼の視線の先には夕照を煌めかせる黄金と白銀の大聖堂が存在していた。


 「大聖堂に行こうと思う」


 「何故ですか?」


 「あそこから妙な気配を感じるんだ。それが何かを知りたいだけだ」


 「アインが行くなら私も行きましょう。クオンさんは街にお酒を飲みに行っているそうですし……あ、シャーリエさんに案内してもらいましょうか」


 暇ならいいのですが……と、呟きながらウィシャーリエに魔石回路を用いた通信用魔道具で連絡するが彼女は応答しない。


 「あの肉塊はどうした」


 「連絡に応じませんね……何かあったのでしょうか」


 「キリルに連絡してみたらどうだ?」


 「あ! その手がありました。少々お待ちくださいね」


 液体が流れるような音を発するイヤリング型の通信具に意識を寄せ、キリルに通信を繋いだサレナは用件を話し通信を切る。


 「暫くしたら来れるそうです。時間がありますし、そうですね……お茶でも飲みますか?」


 「ああ」


 紅茶を淹れる準備を始めたサレナを一瞥したアインはジッと大聖堂を見つめ、内で蠢く不協和音を耳にする。その不協和音は彼に警告に似た音を発し、大聖堂へ行く意思を曲げようとしていた。

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