神―――その言葉の意味が分からない。
神とはどういった存在で、神とはどんな意味がある言葉なのかウィシャーリエには理解出来なかった。
アインの内なる声は神を打倒せよ、神を殺せ、己に刻まれた原初の罪を清算せよと口々に叫ぶ。怨嗟と怨恨、ありとあらゆる負の感情を以て、神を赦さぬと吠え狂う。
ウィシャーリエは声を聞くが、その内なる声と会話する術を持ち合わせていなかった。一方的に心の声を聞くだけの異能は己の精神負担が大きいだけの能力であり、精神負担が大きければ大きい程消費する魔力も比例して多くなる。
神を殺せ、神を赦すなかれ、神を名乗る命を断て、神、神、神――――。
荒れ狂う大海のような激情の大波に意識を奪われかける。全てを飲み込み、喰らい尽くそうとする怨嗟と怨恨の渦に己という存在そのものを失いかける。
これ以上剣士の心の声に耳を傾けてはならないと脳が危険信号を発した。直ぐ様異能を遮断し、遠ざかるべきだと意思が叫んだ。ウィシャーリエの全てが、剣士から逃亡するよう指示を下す。
だが、意識を剣士から外す事が出来ない。彼の声がウィシャーリエの意識を掴み取り、離さない。憎悪と憤怒の濁流にそのまま流されようとした瞬間、弱々しい儚く脆い声を聞く。
声は注意して聞かねば耳に届かない、か細いものだった。細長い管を通って漏れ出た空気のような声。心許ない糸を思わせる声に意識を向け、必死に辿った先には激情に駆られた声とは別の声が存在していた。
何時しか、いや、俺は永遠に赦されないのだろう。
皮膜のように薄い声。疲れたきった男の声は独り言のように呟く。
俺は
芯が短くなった蝋燭に灯る、消えかけた炎のような声はただ一人独白する。己が犯した罪と悪を。
願っても、祈っても、希望は失せた。この世界に絶望が蔓延したのは他の誰でもない、俺が躊躇ったせいだ。醜悪に歪んだ制約が敷かれたのは、剣を握るのが遅かったせいだ。
赦してくれとは言わない。赦して欲しいとも望まない。俺は赦されぬ罪と罰を刻まれた者。故に、この身は腐れ果てる事も叶わず、死すら迎えられぬ悪である。
深い溜息と共に、鋼の音が鼓膜に響く。甲冑の装甲が
声を発した
俺の声を聞いた者よ、どうか伝えて欲しい。お前はお前自身の記憶を作り、真に愛する者を最後まで守りきれと。俺と同じ過ちを繰り返すなと。
意識が弾き飛ばされ、異能を発動させていた魔力が断ち切られる。
明確な拒絶の意。言葉を話し終えた
祝福を賜った小さき者よ。奴は、表の男は怖ろしいだろうが、変化を求める意思には敬意を評する者だ。それさえ覚えていれば、奴の懐に潜り込み言を伝えられよう。……頼んだぞ。
その言葉を最後に、彼女の意識と聴覚はアインの内から引き剥がされた。
……
………
…………
……………
……………
…………
………
……
「―――さん? シャーリエさん? 大丈夫ですか?」
身体を震わせ、寝過ごした後かのように意識を取り戻したウィシャーリエは額から流れる汗を拭い、己の瞳を見上げていたサレナを視界に映す。
「凄い汗ですが、体調が悪いのですか?」
「い、いえ、大丈夫です……」
「あまり無理をなさらないで下さい。疲れているのなら少し休みましょう」
「ほ、本当に大丈夫ですから!」
「そうですか? けど、少し人に疲れましたね。何処か休める場所はありますか?」
「休める場所……えっと」
しまった、と少女は思う。サレナ一行を案内する宿の場所は知っているが、何か食べたり足を休める店を知らないと内心焦る。
右を見れば武具店と衣料品店が立ち並び、左を見れば魔導具や魔法薬等を売る魔法店が立ち並ぶばかり。周囲を見渡し、何か良い店はないものかと探している途中、クオンが「サレナちゃん、君は量と味どっちがいい?」と話し、腕を組んで笑みを浮かべていた。
「……出来れば両方がいいです」
「両方? 君、両方と言ったね?」
「は、はぃ……」
「両方がいいと話す君に良い店があるよ。量が多い上に安くて美味い名店さ。どう? 興味が出て来たでしょ?」
「そ、それは本当ですか!? 行きます!」
「じゃぁ付いて来て。シャーリエちゃんも私が紹介する店でいいかな?」
「お願いします!」
渡りに船とはこのことだろう。王城の一室から見える景色と時偶外出する際に利用する宿の位置しか知らなかったウィシャーリエはホッと胸を撫で下ろし、大通りの脇に逸れた路地へ足を進めるクオンとサレナに続く。
「いやぁ、昔の話だけどさ。私何回か聖都に来た事があるんだよね」
「修行をしていた頃ですか?」
「まぁね。この都市の練兵場や訓練場で何度か手合わせしたり、経営術なんかを学んだりしてさ。その際によく通ってた店があるんだよ」
「あの、お金の方は私が持っている貨幣でも使えますか?」
「勿論。統一貨幣は便利だけど、対応している店は元から資本力があったり、設備投資に余裕があったりしたから導入出来たのが現状かな。今から行く店は薄利多売がもっとうだから、統一貨幣以前のお金が使える筈だよ」
「そうなんですね、ありがとうございます。クオンさん」
「別にお礼なんていいよ。大した事なんか言って無いし」
そう言って軽く笑ったクオンは先頭を歩き、路地を進む。
スピースの路地と比べ、ウルサ・マヨルの路地は均整の取れたゴミ一つ落ちていない綺麗なものだった。
石畳の上で酒を呷る労働者も居なければ、行方不明者の張り紙が張り付けられていない民家の壁。衛兵が列を組んで巡回しては、不審人物を見つけたら報告するように願う。秩序立った路地は薄暗くあれど、闇や穢れといった要素は見当たらない。
「あぁ、此処だ。まだやってたんだね」
「……此処が?」
「うん」
一見してみれば民家の裏口のような扉。
「何だか普通の民家のように見えますが……」
「ま、洒落っ気は無いよね。お邪魔しまーす!」
何の迷いもなく扉を開けたクオンに対し、サレナは驚いたような目を向ける。
「え!? あの、本当に民家だったら―――」
扉の向こう側にはしっとりとした空気感と対照的な存在が豪快に料理道具を振るっていた。大量の料理を作る筋骨隆々の大男は