少女は駆ける。
可憐な白百合を思わせる少女は灰色のローブで全身を覆い、顔半分がすっぽりと覆われるフードを被ってウルサ・マヨルの路地を駆けていた。
彼女を追うのは鎧を着飾った数人の兵士。兵は皆手練れであり、かなりの重量がある鎧を身に着けているというのに一切息切れせず、すばしっこく駆け回る少女を執拗に追いかけていた。
息が切れる。足が痛む。汗がまつ毛を通り抜け、目に入って痛い。けど、止まれない。父の客人を一目見るまでは走り続ける。
「待って下さい!! クソ……意外と足が速い!!」
「お前、右に回れ!! 先回りしろ!!」
「了解!!」
「私はどうしたらいい!?」
「自分で考えろ!!」
「えぇ……」
路地を駆け、曲がり角を数回曲がる。花瓶が置かれた樽を引き倒し、兵の行く手をあの手この手で阻んでいた少女は路地から通りへ走り抜け、人混みの中へ紛れ込む。
「すまない!! そこの女の子を捕まえてくれ!! そっと優しくだぞ!!」
人の隙間をすり抜け、己に伸びた手を次々に叩き落としながら進む少女の姿はまるで人馴れしていない猫の様。どんどん遠ざかってゆく兵を視界に捉えた少女は小悪魔のように舌を出し、更に駆けようとしたが不注意にも固い衝撃と共に尻もちを着く。
「イタタ……あの、申し訳ありませ」
「……」
異貌の兜から覗く真紅の瞳。形容し難き異形の黒甲冑。大熊のような巨躯を持つ黒の剣を背負う剣士アインは少女へ殺意と憎悪をぶつけると、厚い黒鉄で覆われた手を伸ばし彼女のローブの襟首を掴み上げる。
「あ、あ、あの、申し訳ありませ」
「……怪我はないか?」
「え……?」
「怪我は無いかと聞いている」
「あの、はい、大丈夫です」
「そうか」
少女を地面に降ろし、興味が失せたような態度で背を向けたアインは人混みの中へ紛れようとする。
見た事が無い剣士だった。燃え盛る業火のような真紅の瞳を持つ剣士。全身を隙間なく黒甲冑で覆い、身の程ある漆黒の大剣を背負った異形の剣士アインは人の波の中で手を振るう白銀の少女サレナの下へ歩を進める。
「あ、あの!!」
「……」
「黒い剣士さん!! 待って下さい!!」
「……何だ、鬱陶しい」
「えっと、えっと、聖都の案内役は必要ありませんか!?」
「必要無い」
「え!? 私、この都市で産まれ育ったので詳しいですよ!!」
「何でそうしつこく迫る。案内なら聖王が寄越した者がいる」
「お、おと―――」
少女は思わず口を手で塞ぎ、サレナの近くに立つキリルに目を見張る。
「え、えぇっと、剣士さんはその、聖王様のお客人なのでしょうか?」
「奴が主に用があったのは俺ではない、サレナの方だろうな。……貴様、色々とおかしいぞ? 何を隠している」
「いえ! 隠してなんて」
「ちょっとアイン、どうしたのさこんな女の子相手に。ごめんね? このお兄さん少し怖かったでしょ? 悪気は無いんだよ?」
「クオン、口を挟んでくるな。お前はサレナの近くに居て周囲の警戒を」
「アインが遅いから様子を見に来たんじゃん? えっと、お嬢ちゃんお名前は? 迷っちゃったのかな? ほら、お姉ちゃんの手につかまって」
アインの背を叩いた赤髪の美女クオンは少女の目線に合わせるようにしゃがみ込み、フードの襟に隠れた瞳を覗き込もうとしたが、少女はフードを深く引っ張り顔を隠そうとする。
「あらら、ごめんね? 困った事があるならお姉ちゃんが相談に乗るよ?」
「えっと、えっと―――」
「……」
深い溜息を吐いたアインは苛立たし気に舌打ちすると少女を軽々と肩に担ぐ。
「ちょっとアイン! 乱暴じゃないか!」
「面倒だ、この肉塊はサレナの下へ連れて行く」
「サレナちゃんの下へ連れて行くって君ねぇ、少しは女の子の扱い方を考えた方が」
「考えたところでコレは自分の意思を真っ直ぐに伝えないだろう。何時まで待っても話さないようでは、時間の無駄だ」
「本ッ当に君はサレナちゃん以外の人には厳しいなぁ」
「勝手に言え」
「は、離して下さい!」
「貴様は黙っていろ」
少女の振るった手が兜に当たり、アインの頭が僅かに揺れた。だが、彼はそんなものは気にしないと言う風に大股でサレナの下へ歩み寄り、少女を地面に降ろす。
「アイン、この方は?」
「知らん」
「そうですか、私の名はサレナと申します。あの、お名前を教えてもらっても宜しいでしょうか?」
「わ、私の名前はウィシャー」
「シャーリエ、何処で油を売っていたのですか? 我が王の客人の世話と案内は貴女にも言い付けられていた筈です。全く、黒鉄の剣士殿が貴女を見つけて下さらなければ、私が全ての仕事を片付けなければいけないところでした」
ハッキリと。言葉で叩くような言い方をしたキリルはシャーリエと呼ばれた少女を睨みつけ、腕を組んだ状態で溜息を吐く。
「き、キリル?」
「キリルさんでしょう? シャーリエ、貴女は今日よりサレナ様が聖都より発つ日まで付き人でありなさい。人混みの向こう側に居る兵には私から言い付けておきますので、貴女は自分の任に留意なさい。いいですね?」
「は、はい!」
フードを被ったまま嬉しそうに飛び跳ねた少女シャーリエはハッとした様子で小さく咳払いし、腰に手を当てると薄い胸を張る。
「初めましてサレナさん! 私の名はウィシャー……じゃなかった、シャーリエと申します! 聖王様より貴女様のお世話を言い付けられた者です! さぁどんどん頼って下さいね!」
「宜しくお願いしますシャーリエさん。なら宿に案内してもらいたいのですが、案内してくれますか?」
「任せて下さい! 宿の名前は分かりますか?」
「そうですね……ステールライと呼ばれる宿なのですが」
「ステールライですね? 分かりました、付いて来て下さい!」
サレナの手を掴み、悠々と歩き出したシャーリエを眺めたアインはキリルへ視線を向ける。
「何か?」
「……いや、何でもない」
「そうですか」
二人の少女を追ったクオンを他所に、アインはキリルの瞳を見つめる。
何を考えているのか、何を思っているのか分からなかった。この女の思考の一切が分からない。本当に感情を持っているのかさえも怪しい鉄仮面の女。警戒すべき相手に違いないのだろうが、人間とも魔族とも判別がつかないキリルの言葉を聞くと少なくとも生命と向かい合っている気にはならない。
仮初の生命を宿した人形。そうだ、この女はカロンの屋敷で見た魔導人形と似ているのだ。人の言葉を解する人形を思わせるキリルの表情を見据えたアインは「貴様は一体何者だ」と話し、彼女に背を向ける。
「私はキリル。我が王の忠実なる僕にして、ただの小間使いで御座います。それ以外の何者でもありません」
「……」
「信用できないと申すならば剣で斬っても構いません。ですが、剣を抜いた瞬間に貴男は王の破界儀の脅威に晒されます。その事をご理解下さいませ」
忌々しいと言った様子で舌打ちしたアインは三人の後を追うようにして歩き始め、その背を見送ったキリルは微笑を湛える。
この人は、話に聞いていた通りの人だと、そう思ったのだった。